2014年04月30日
浄土系宗派の文化・しきたり⑧
しかし江戸から明治にかけては、国家権力によって何度も禁止令が出されました。また第二次世界大戦中も遊興禁止ということで、盆踊りも停止させられました。復興したのは戦後になってからです。
(続きは、浄土系宗派の文化・しきたり⑨にて)

(続きは、浄土系宗派の文化・しきたり⑨にて)

2014年04月29日
浄土系宗派の文化・しきたり⑦
室町時代には、宗教色が弱まり、華やかな衣装の群舞へと変化していきます。江戸時代には囃子の登場でいっそう娯楽性が強まり、各地に郷土色豊かな盆踊りが生まれました。豊年踊り・さんさ踊りなどのこの頃に登場しています。歌舞伎の源流である阿国歌舞伎も、はじめは念仏踊りであったといわれています。
(続きは、浄土系宗派の文化・しきたり⑧にて)

(続きは、浄土系宗派の文化・しきたり⑧にて)

2014年04月28日
浄土系宗派の文化・しきたり⑥
踊り念仏は先祖の霊を慰めようとする現在の盆踊りとは性格が異なり、現世での自らの救いと極楽浄土への往生を願い「南無阿弥陀仏」を称えながら無我の境地で踊ります。
そんな空也の踊り念仏を融通念仏宗の良忍が受け継ぎ、さらに鎌倉時代になると時宗の一遍が集団で踊るスタイルに発展させました。
これには出家信者ばかりでなく、在家信者も加わりました。それが民間に広まるにつれて死者を供養する盂蘭盆の行事と結びつき、やがて踊りがメインとなっていったのだといいます。
(続きは、浄土系宗派の文化・しきたり⑦にて)

そんな空也の踊り念仏を融通念仏宗の良忍が受け継ぎ、さらに鎌倉時代になると時宗の一遍が集団で踊るスタイルに発展させました。
これには出家信者ばかりでなく、在家信者も加わりました。それが民間に広まるにつれて死者を供養する盂蘭盆の行事と結びつき、やがて踊りがメインとなっていったのだといいます。
(続きは、浄土系宗派の文化・しきたり⑦にて)

2014年04月27日
浄土系宗派の文化・しきたり⑤
夏の風物詩として欠かせない盆踊り。町の広場や寺の境内などに櫓を組み、その上で笛や太鼓が囃子を奏でます。音頭とりは独特の節回しで歌を歌い、櫓の周りを浴衣姿の人々が輪になって踊ります。盂蘭盆(お盆)中に全国各地で見られる、懐かしい日本の原風景です。
この盆踊りのルーツは平安時代にさかのぼり、一説によると、街角で民衆に念仏を広めた僧・空也がはじめた踊り念仏に原型があるといわれています。
(続きは、浄土系宗派の文化・しきたり⑥にて)

この盆踊りのルーツは平安時代にさかのぼり、一説によると、街角で民衆に念仏を広めた僧・空也がはじめた踊り念仏に原型があるといわれています。
(続きは、浄土系宗派の文化・しきたり⑥にて)

2014年04月26日
浄土系宗派の文化・しきたり④
浄土美術には、死後に地獄に堕ちた者が苦しむさまを描いた地獄絵もあります。源信が「往生要集」に地獄の様子を詳しく記してからさかんに描かれるようになり、鎌倉時代の「六道絵」(聖衆来迎寺蔵)などが有名です。
また南北朝時代から室町時代につくられた「往生要集絵巻」には、焦熱地獄・阿鼻地獄などあらゆる種類の地獄が描かれています。
浄土の美しい光景よりも、阿鼻叫喚の地獄の恐ろしさを見せられることで、よりいっそう浄土への憧れを強くした信者も多くいたはずです。
(続きは、浄土系宗派の文化・しきたり⑤にて)

また南北朝時代から室町時代につくられた「往生要集絵巻」には、焦熱地獄・阿鼻地獄などあらゆる種類の地獄が描かれています。
浄土の美しい光景よりも、阿鼻叫喚の地獄の恐ろしさを見せられることで、よりいっそう浄土への憧れを強くした信者も多くいたはずです。
(続きは、浄土系宗派の文化・しきたり⑤にて)

2014年04月25日
浄土系宗派の文化・しきたり③
来迎図には阿弥陀如来が山のむこうに姿をあらわすもの、雲に乗ったものの二つの構図があります。
雲に乗って左上から右下へと斜めに移動しているものは、来迎するスピードがあるように感じられるので、早来迎とよばれます。とくに知恩院の「阿弥陀二十五菩薩来迎図」は早来迎の傑作として知られています。
ほかにも「山越阿弥陀図」「阿弥陀聖衆来迎図」など見事な作品がたくさんあります。
(続きは、浄土系宗派の文化・しきたり④にて)

雲に乗って左上から右下へと斜めに移動しているものは、来迎するスピードがあるように感じられるので、早来迎とよばれます。とくに知恩院の「阿弥陀二十五菩薩来迎図」は早来迎の傑作として知られています。
ほかにも「山越阿弥陀図」「阿弥陀聖衆来迎図」など見事な作品がたくさんあります。
(続きは、浄土系宗派の文化・しきたり④にて)

2014年04月24日
浄土系宗派の文化・しきたり②
浄土教で極楽浄土へ往生できるか否かは、臨終のときに阿弥陀如来が迎えにくる姿を見られるかどうかにかかっています。そこで人々は、早く救われたいという思いから臨終間際の者の枕元に来迎図を置き、念仏を称えて往生を願ったといいます。そんな信仰心が数多くの来迎図を生み出したのでしょう。
(続きは、浄土系宗派の文化・しきたり③にて)

(続きは、浄土系宗派の文化・しきたり③にて)

2014年04月23日
浄土系宗派の文化・しきたり①
平安時代後期から鎌倉時代にかけて浄土信仰がさかんになるなか、浄土経典に説かれた内容を視覚的に表現した図絵があらわれました。これらは浄土美術とか、浄土変といわれ、教えの普及に貢献しました。
なかでも、もっとも多く描かれたのが来迎図です。「浄土三部経」の「観無量寿経」にもとづいた絵画で、往生しようとしている者を阿弥陀如来が諸菩薩とともに迎えにくるさまを描いています。
(続きは、浄土系宗派の文化・しきたり②にて)

なかでも、もっとも多く描かれたのが来迎図です。「浄土三部経」の「観無量寿経」にもとづいた絵画で、往生しようとしている者を阿弥陀如来が諸菩薩とともに迎えにくるさまを描いています。
(続きは、浄土系宗派の文化・しきたり②にて)

2014年04月22日
密教系宗派の文化・しきたり⑩
2014年04月21日
密教系宗派の文化・しきたり⑨
外護摩は不動明王の前に護摩壇を設け、真言を唱えながら火中に供物を投げ入れます。そして諸仏を供養し、病の回復や怨敵の降伏などを祈願します。
いっぽう、内護摩は心のなかの智慧の炎によって、煩悩や邪気を焼き尽くす修法です。心のなかに護摩壇をしつらえ、不動明王の炎を想起します。その炎のなかでさまざまな煩悩を焼き払い、仏と交信して悟りを得るのです。
(続きは、密教系宗派の文化・しきたり⑩にて)

いっぽう、内護摩は心のなかの智慧の炎によって、煩悩や邪気を焼き尽くす修法です。心のなかに護摩壇をしつらえ、不動明王の炎を想起します。その炎のなかでさまざまな煩悩を焼き払い、仏と交信して悟りを得るのです。
(続きは、密教系宗派の文化・しきたり⑩にて)

2014年04月20日
密教系宗派の文化・しきたり⑧
日本における護摩の儀式はおもに真言宗で行なわれ、内護摩・外護摩という二つの修法にわけられます。
護摩を焚く目的は、息災・増益・調伏・敬愛の四つがあります。炉の形や修法の時間などの具体的な方法は、この目的によって違ってきます。
インドでは火の神・アグニを護摩の本尊として儀式を行ないますが、日本の密教では不動明王が本尊になります。
(続きは、密教系宗派の文化・しきたり⑨にて)

護摩を焚く目的は、息災・増益・調伏・敬愛の四つがあります。炉の形や修法の時間などの具体的な方法は、この目的によって違ってきます。
インドでは火の神・アグニを護摩の本尊として儀式を行ないますが、日本の密教では不動明王が本尊になります。
(続きは、密教系宗派の文化・しきたり⑨にて)

2014年04月19日
密教系宗派の文化・しきたり⑦
護摩は、紀元前二〇〇〇年頃に古代インドで編纂された聖典「リグ・ヴェーダ」に由来します。この聖典に登場する火の神・アグニを供養することで魔を除き福を得る儀式を「ホーマ」とよび、ホーマを音訳した語が護摩です。ホーマの儀式はインドからチベット、中国を経て日本に伝わりました。
(続きは、密教系宗派の文化・しきたり⑧にて)

(続きは、密教系宗派の文化・しきたり⑧にて)

2014年04月18日
密教系宗派の文化・しきたり⑥
僧侶たちの真言の唱和と太鼓が鳴り響く寺院のなかで、中央に置かれた護摩壇に火をつけます。そして供物を燃やした炎の煙が、仏に届くよう祈願する・・・
この神秘的で不可思議な護摩の儀式は、本尊・行者・参拝者が一体化して願望を成就させる密教の修法です。炎のもつエネルギーが行者と参拝者に振動を与え、仏と共鳴して関係が生まれるといいます。
(続きは、密教系宗派の文化・しきたり⑦にて)

この神秘的で不可思議な護摩の儀式は、本尊・行者・参拝者が一体化して願望を成就させる密教の修法です。炎のもつエネルギーが行者と参拝者に振動を与え、仏と共鳴して関係が生まれるといいます。
(続きは、密教系宗派の文化・しきたり⑦にて)

2014年04月17日
密教系宗派の文化・しきたり⑤
いっぽう金剛界曼荼羅は、「金剛頂経」にもとづく曼荼羅で、人間の菩提心が仏へ届く過程を示しています。中央の成身会を中心に九分轄された各界には、合計一四六一もの仏が描かれています。
(続きは、密教系宗派の文化・しきたり⑥にて)

(続きは、密教系宗派の文化・しきたり⑥にて)

2014年04月16日
密教系宗派の文化・しきたり④
胎蔵界曼荼羅は、密教の二大経典の一つ「大日経」にもとづいて描かれています。母親の胎内に眠る胎児のような人間の仏性(仏になる性質)が仏の慈悲によって目覚め、悟りに至るまでの過程を示しています。中台八葉院に座する大日如来の智慧が、内から外へ四方に広がるさまを表現しています。
(続きは、密教系宗派の文化・しきたり⑤にて)

(続きは、密教系宗派の文化・しきたり⑤にて)

2014年04月15日
密教系宗派の文化・しきたり③
そんな曼荼羅のなかでもっとも重要なのが、平安時代に空海が唐から持ち帰った両部曼荼羅、つまり胎蔵界曼荼羅と金剛界曼荼羅です。
真言密教の教えは、この二つに網羅されているといわれており、芸術品としての価値も高いのです。
(続きは、密教系宗派の文化・しきたり④にて)

真言密教の教えは、この二つに網羅されているといわれており、芸術品としての価値も高いのです。
(続きは、密教系宗派の文化・しきたり④にて)

2014年04月14日
密教系宗派の文化・しきたり②
曼荼羅があらわしているのは、密教の理念や理想とする世界です。チベットやネパールでは、悟りを求めて修行する密教僧の心の道標として、あるいは弟子の入門儀式の際に用いる道具として使われているといいます。
日本にはさまざまな形態の曼荼羅が残されており、平面的な絵でなく立体的な像で悟りを表現した羯磨曼荼羅や梵字で表現した法曼荼羅、仏の持物などのシンボルで表現した三昧耶曼荼羅、絵画で表現した大曼荼羅などがよく知られています。
(続きは、密教系宗派の文化・しきたり③にて)

日本にはさまざまな形態の曼荼羅が残されており、平面的な絵でなく立体的な像で悟りを表現した羯磨曼荼羅や梵字で表現した法曼荼羅、仏の持物などのシンボルで表現した三昧耶曼荼羅、絵画で表現した大曼荼羅などがよく知られています。
(続きは、密教系宗派の文化・しきたり③にて)

2014年04月13日
密教系宗派の文化・しきたり①
最近は、テレビや美術館などで曼荼羅を目にする機会が少なくありません。しかし、あの不思議な描写が何をあらわしているかを知っている人はあまりいないでしょう。
曼荼羅の起源は、約一五〇〇年前のインドにあります。当時の曼荼羅はいまのような画布ではなく、神をよびよせるために地面に描く砂絵だったといいます。それがネパール、チベット、中国を経て日本へと伝えられました。
(続きは、密教系宗派の文化・しきたり②にて)

曼荼羅の起源は、約一五〇〇年前のインドにあります。当時の曼荼羅はいまのような画布ではなく、神をよびよせるために地面に描く砂絵だったといいます。それがネパール、チベット、中国を経て日本へと伝えられました。
(続きは、密教系宗派の文化・しきたり②にて)

2014年04月12日
天台宗の宗祖⑨
晩年の最澄は、五六歳でこの世を去るまで天台宗の発展と僧侶の育成に全力を傾けました。
彼の最大の功績は、比叡山を真の仏教家を育てる教育機関にしたことです。努力の甲斐あって比叡山は日本仏教の総合大学といわれるような寺院になり、浄土宗・浄土真宗・時宗・臨済宗・曹洞宗・日蓮宗などの宗派を次々と生むことになったのです。
関連記事
天台宗の宗祖①~⑧

彼の最大の功績は、比叡山を真の仏教家を育てる教育機関にしたことです。努力の甲斐あって比叡山は日本仏教の総合大学といわれるような寺院になり、浄土宗・浄土真宗・時宗・臨済宗・曹洞宗・日蓮宗などの宗派を次々と生むことになったのです。
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2014年04月11日
天台宗の宗祖⑧
空海が最澄の借用申請を拒んだ理由は、最澄が密教秘法の伝授に不可欠な前行を修得していないからでした。
最澄も天台宗の宗祖という立場上、いまさら真言密教の修行僧となるわけにもいかず、これ以降、二人の関係は断絶してしまいます。
最澄の密教は弟子の円仁・円珍に受け継がれ、彼らによって天台密教が確立されました。
(続きは、天台宗の宗祖⑨にて)

最澄も天台宗の宗祖という立場上、いまさら真言密教の修行僧となるわけにもいかず、これ以降、二人の関係は断絶してしまいます。
最澄の密教は弟子の円仁・円珍に受け継がれ、彼らによって天台密教が確立されました。
(続きは、天台宗の宗祖⑨にて)
