2013年08月08日
浄土真宗とは?⑳
阿弥陀如来の本願は、老若男女、清浄な人も罪深い人も、あらゆる人を差別なく救うという誓いです。
だがそうはいっても、信心が起こらない人もいますし、半信半疑の人も少なくありません。
そんな現実を前にした親鸞は、じっさいに自分が妻帯して見せることで、ありのままの姿でも阿弥陀如来は救ってくれるということを示そうとしたのです。信仰に生涯をささげた親鸞の強固な意志がうかがえるエピソードです。
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浄土真宗とは?①~⑳
だがそうはいっても、信心が起こらない人もいますし、半信半疑の人も少なくありません。
そんな現実を前にした親鸞は、じっさいに自分が妻帯して見せることで、ありのままの姿でも阿弥陀如来は救ってくれるということを示そうとしたのです。信仰に生涯をささげた親鸞の強固な意志がうかがえるエピソードです。
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2013年08月07日
浄土真宗とは?⑲
ただし妻帯するにしても、それを隠し通すのが当時の常識です。親鸞は堂々と妻帯し、子供までもうけたため、世間から異端視され、女犯(女性と交わる罪)の破戒僧として非難を浴びることになったのです。
そうした非難を受けてまで親鸞が妻帯しつづけた理由は、いったい何だったのでしょうか。
(続きは、浄土真宗とは?⑳にて)
そうした非難を受けてまで親鸞が妻帯しつづけた理由は、いったい何だったのでしょうか。
(続きは、浄土真宗とは?⑳にて)

2013年08月06日
浄土真宗とは?⑱
親鸞は妻帯者です。妻帯を敢行したのは、法然に入門して二年目の頃とされています。
師の法然は生涯を独身で過ごし、妻帯はしませんでした。戒律など存在しない荒んだ末法時代にあっては破戒もありえないといい、戒律を守ったとしても往生のための純粋な行にはならないと考えました。そんな信念をもった法然は、「独身であって念仏ができないならば、妻帯して念仏せよ」と説いていたといいます。
(続きは、浄土真宗とは?⑲にて)
師の法然は生涯を独身で過ごし、妻帯はしませんでした。戒律など存在しない荒んだ末法時代にあっては破戒もありえないといい、戒律を守ったとしても往生のための純粋な行にはならないと考えました。そんな信念をもった法然は、「独身であって念仏ができないならば、妻帯して念仏せよ」と説いていたといいます。
(続きは、浄土真宗とは?⑲にて)

2013年08月05日
浄土真宗とは?⑰
仏教では、出家僧が妻をもつことや、殺生して魚肉を食べることは基本的にタブーとされています。だが日本では、仏教が伝来した頃から妻帯する僧侶がおり、私度僧とか沙弥、聖とよばれていました。
そのいっぽう、厳格に戒律を守り肉食や妻帯をせず、ひらすら修行に打ち込む僧もいます。
仏教徒としてどちらが正しいあり方なのかという問題については意見の分かれるところですが、いまはどちらも正しいとする考え方が一般的です。
(続きは、浄土真宗とは?⑱にて)
そのいっぽう、厳格に戒律を守り肉食や妻帯をせず、ひらすら修行に打ち込む僧もいます。
仏教徒としてどちらが正しいあり方なのかという問題については意見の分かれるところですが、いまはどちらも正しいとする考え方が一般的です。
(続きは、浄土真宗とは?⑱にて)

2013年08月04日
浄土真宗とは?⑯
善人の往生が阿弥陀如来の本願なら、熱心に修行に励む僧侶などは必ず往生できるでしょう。だが親鸞は、そんな自力を信じる善人より、煩悩に悩む衆生を救うことが本願だと教えているのです。
(続きは、浄土真宗とは?⑰にて)
(続きは、浄土真宗とは?⑰にて)

2013年08月03日
浄土真宗とは?⑮
とはいえ、どんな悪事をはたらいても許されるわけではありません。事実、かつては「阿弥陀如来は善人より悪人を気にかけてくれるのだから、悪事をすればするほどよい」と解釈する人もいました。しかし、これは造悪無碍(悪さのしほうだい)といわれる極端な誤解で、親鸞によって厳しく戒められています。
(続きは、浄土真宗とは?⑯にて)
(続きは、浄土真宗とは?⑯にて)

2013年08月02日
浄土真宗とは?⑭
したがって阿弥陀如来にとっては、自力にこだわり他力に頼ろうとしない善人は浄土へ引き上げにくく、いっさいをまかせきっている悪人のほうが引き上げやすいという状況が生まれます。
そこで悪人ほど往生できる、と親鸞は説きました。これが悪人正機説の真意なのです。
(続きは、浄土真宗とは?⑮にて)
そこで悪人ほど往生できる、と親鸞は説きました。これが悪人正機説の真意なのです。
(続きは、浄土真宗とは?⑮にて)

2013年08月01日
浄土真宗とは?⑬
このすべての人間を救うのが阿弥陀如来の本願で、阿弥陀如来にすべてをまかせ、極楽浄土に往生させてもらうのが本願他力です。
善人は自ら進んでよい行ないをし、自力で往生しようとします。だが悪人は善行などできないので、自力での往生は不可能、阿弥陀如来にすべてをまかせ、すがりつくしか方法はありません。
(続きは、浄土真宗とは?⑭にて)

善人は自ら進んでよい行ないをし、自力で往生しようとします。だが悪人は善行などできないので、自力での往生は不可能、阿弥陀如来にすべてをまかせ、すがりつくしか方法はありません。
(続きは、浄土真宗とは?⑭にて)

2013年07月31日
浄土真宗とは?⑫
ただし、ここで親鸞がいう「悪人」とは、世間一般でいう悪人ではありません。さまざまな欲望やねたみ、怒りにとらわれ、煩悩に苦しむわれわれ人間のことです。仏はどんなに小さな悪事も見逃しませんから、人間は誰しも悪人とみなされます。
(続きは、浄土真宗とは?⑬にて)
(続きは、浄土真宗とは?⑬にて)

タグ :浄土真宗
2013年07月30日
浄土真宗とは?⑪
「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」という親鸞の言葉は、たいへんよく知られています。これは弟子の唯円が親鸞の死後にまとめた「歎異抄」にある言葉で、悪人正機説とよばれます。単純に訳すと「善人でさえ往生できるのだから、ましてや悪人にできないわけはない」という意味です。
(続きは、浄土真宗とは?⑫にて)
(続きは、浄土真宗とは?⑫にて)

2013年07月29日
浄土真宗とは?⑩
この親鸞の到達した境地を、自然法爾(じねんほうに)とよびます。阿弥陀如来のはからいがわれわれ人間にまでおよぶため、人の側からのはからいはいっさい不要、信心はおのずと訪れ、救われると説いています。
この自然の背後には、むろん阿弥陀如来の本願という力がはたらいています。すなわち阿弥陀如来の本願を信じ、それにしたがって生きる念仏の生活によって、人は苦しみから救われるのであります。
(続きは、浄土真宗とは?⑪にて)
この自然の背後には、むろん阿弥陀如来の本願という力がはたらいています。すなわち阿弥陀如来の本願を信じ、それにしたがって生きる念仏の生活によって、人は苦しみから救われるのであります。
(続きは、浄土真宗とは?⑪にて)

2013年07月28日
浄土真宗とは?⑨
さらに親鸞は、人の側からのはからいによってではなく、如来の誓いによって救いがもたらされると主張しています。自分でも気づかないうちに他力によって信心を抱くようになり、いつの間にか苦しみから解放されているといっています。
(続きは、浄土真宗とは?⑩にて)
(続きは、浄土真宗とは?⑩にて)

2013年07月27日
浄土真宗とは?⑧
他力というと、他人まかせで何も努力しない怠け心と思っている人が多いですが、まったくの誤解です。「他力とは如来の本願力なり」と説かれているように、努力の限りを尽くし、限界を知った者に与えられるのが阿弥陀如来の救いなのです。自分に執着し、無力さに気づかないのは「おごり」であります。親鸞は、「自分の限りを尽くして他力こそ真実と知ること」こそが往生への道だと説いています。
(続きは、浄土真宗とは?⑨にて)
(続きは、浄土真宗とは?⑨にて)

2013年07月26日
浄土真宗とは?⑦
この四十八の誓いについては浄土教の根本経典の一つ「無量寿経」に記されていますが、そのなかでもっとも重視されるのは第十八願です。これは、法蔵菩薩が阿弥陀如来になったとき、極楽浄土への往生を願って「南無阿弥陀仏」と称えれば、あらゆる人々を救いとるという誓いです。この阿弥陀如来の誓いにいっさい身をまかせることを、本願他力といいます。
(続きは、浄土真宗とは?⑧にて)
(続きは、浄土真宗とは?⑧にて)

2013年07月25日
浄土真宗とは?⑥
親鸞は自力を捨て阿弥陀如来の本願を信じることによって救われるとする本願他力を説いています。「他力」とは阿弥陀如来の本願力のことで、「本願」とは阿弥陀如来が悟りを開く前、法蔵という名の菩薩だったときに立てた四十八の誓いのことです。
(続きは、浄土真宗とは?⑦にて)
(続きは、浄土真宗とは?⑦にて)

2013年07月23日
浄土真宗とは?⑤
それは、親鸞の身をもって示されています。自らも妻子をもち、子供をもうけています。そして非僧非俗(僧でもなく俗でもない)の立場をつらぬき、愚禿(愚かな坊主)と称したのです。
(続きは、浄土真宗とは?⑥にて)
(続きは、浄土真宗とは?⑥にて)

2013年07月22日
浄土真宗とは?④
浄土宗と浄土真宗とのちがいはほかにもあります。浄土宗は出家仏教だが、浄土真宗は在家仏教です。
親鸞は出家して厳しい戒律のなかで生活しなくても、阿弥陀如来を信じれば誰もが救済されると主張し、在家仏教を確立しました。
(続きは、浄土真宗とは?⑤にて)

親鸞は出家して厳しい戒律のなかで生活しなくても、阿弥陀如来を信じれば誰もが救済されると主張し、在家仏教を確立しました。
(続きは、浄土真宗とは?⑤にて)

2013年07月21日
浄土真宗とは?③
たしかに、法然の専修念仏は、さほど難しい行ではありません。だが、念仏そのものが「行」ともいえます。親鸞はその行をまったく取り払って、阿弥陀如来の力を信じるだけで救われるとし、信心がもっとも大切だと説いています。
ただし、念仏を軽視しているわけではなく、信心と念仏はわけられないと教えているのです。
(続きは、浄土真宗とは?④にて)
ただし、念仏を軽視しているわけではなく、信心と念仏はわけられないと教えているのです。
(続きは、浄土真宗とは?④にて)

2013年07月20日
浄土真宗とは?②
法然の教えは、念仏を称え、阿弥陀如来にすがりつくことによって救済を得るというものです。一見、簡単そうな教えです。
だが、なかにはそれさえできない人もいます。誰もがさまざまな煩悩を断ち切り、念仏に救いを見出せるとも限りません。
そこで親鸞は、阿弥陀如来の力を信じることが往生への第一歩であると説きました。念仏も大事だが、より重要なのは信心だというのであります。これは浄土宗の念仏為本に対して、信心為本といわれます・
(続きは、浄土真宗とは?③にて)
だが、なかにはそれさえできない人もいます。誰もがさまざまな煩悩を断ち切り、念仏に救いを見出せるとも限りません。
そこで親鸞は、阿弥陀如来の力を信じることが往生への第一歩であると説きました。念仏も大事だが、より重要なのは信心だというのであります。これは浄土宗の念仏為本に対して、信心為本といわれます・
(続きは、浄土真宗とは?③にて)

2013年07月19日
浄土真宗とは?①
浄土真宗は、法然の弟子である親鸞が興した宗派です。親鸞は法然の忠実な弟子で、師をたいへん慕っていました。
それなのに、なぜ彼は新たな宗派を開いたのでしょうか?
法然が開いた浄土宗では、「南無阿弥陀仏」と一心に称えれば誰でも救われると説いています。この専修念仏が根本の考えで、念仏為本といいます。親鸞は専修念仏を受け継ぎ、それに彼独自の思想を加え、深化させていきました。
(続きは、浄土真宗とは?②にて)
それなのに、なぜ彼は新たな宗派を開いたのでしょうか?
法然が開いた浄土宗では、「南無阿弥陀仏」と一心に称えれば誰でも救われると説いています。この専修念仏が根本の考えで、念仏為本といいます。親鸞は専修念仏を受け継ぎ、それに彼独自の思想を加え、深化させていきました。
(続きは、浄土真宗とは?②にて)
