2014年02月03日
浄土宗の宗祖⑬
法然は念仏を称えることで阿弥陀如来の本願によって救われるという、他力易行の道を教え広めることに生涯を賭けました。
そして門下からは多くの名僧が生まれ、いくつもの流派が形成されていきました。法然は歴史の大きなうねりのなかにあらわれた宗教改革者だったのです。
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浄土宗の宗祖①~⑫

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2014年02月02日
浄土宗の宗祖⑫
さらに一二〇七年(承元元年)法然の二人の弟子が後鳥羽院の女房と密通したという嫌疑で死罪とされ、翌年には法然も四国への流罪となりました。(承元の法難)このとき法然は七十五歳、老骨の身で四国の地へ流され、四年後にようやく帰京を許されましたが、翌年には大谷の禅房で八十歳の生涯を閉じます。
(続きは、浄土宗の宗祖⑬にて)

(続きは、浄土宗の宗祖⑬にて)

2014年02月01日
浄土宗の宗祖⑪
2014年01月31日
浄土宗の宗祖⑩
証空、弁長、親鸞などの弟子が続々と入門してきたのもこの頃です。法然の説く教えは、末法時代の不安におののく大衆を魅了したのです。
こうして念仏の教えは京都だけでなく、東海・北陸にも伝わっていきましたが、いっぽうで南都や比叡山などの旧仏教教団から反発を受けることにもなりました。
(続きは、浄土宗の宗祖⑪にて)

こうして念仏の教えは京都だけでなく、東海・北陸にも伝わっていきましたが、いっぽうで南都や比叡山などの旧仏教教団から反発を受けることにもなりました。
(続きは、浄土宗の宗祖⑪にて)

2014年01月30日
浄土宗の宗祖⑨
この問答で、法然の名と念仏の教えは一気に広まり、九条兼実をはじめ貴族の間にも帰依するものが増えました。
そして兼実の要請に応えて「選択本願念仏集」を著し、独自の念仏思想を示しました。また東大寺の重源の依頼で「浄土三部経」を講じたりもしました。
(続きは、浄土宗の宗祖⑩にて)

そして兼実の要請に応えて「選択本願念仏集」を著し、独自の念仏思想を示しました。また東大寺の重源の依頼で「浄土三部経」を講じたりもしました。
(続きは、浄土宗の宗祖⑩にて)

2014年01月29日
浄土宗の宗祖⑧
そんな法然の名声を高めた出来事があります。京都大原の勝林院の顕真が、法然を招いておこなった念仏の教義問答です。大原問答ともよばれるこの会合には、高僧など三〇〇人あまりが集まりました。
大原問答での法然は、いまの世にふさわしい教えは念仏以外にないと談じ、人々を信伏させたといいます。
(続きは、浄土宗の宗祖⑨にて)

大原問答での法然は、いまの世にふさわしい教えは念仏以外にないと談じ、人々を信伏させたといいます。
(続きは、浄土宗の宗祖⑨にて)

2014年01月28日
浄土宗の宗祖⑦
その後、比叡山をおりた法然は、いまの知恩院がある京都東山大谷に房を構え、念仏の教えを説き始めました。
当初は積極的な布教をおこなわず、法然自身は無名の僧侶にすぎませんでしたが「南無阿弥陀仏を称えれば誰でも救われる」という教えは、しだいに広まりをみせていきました。
(続きは、浄土宗の宗祖⑧にて)

当初は積極的な布教をおこなわず、法然自身は無名の僧侶にすぎませんでしたが「南無阿弥陀仏を称えれば誰でも救われる」という教えは、しだいに広まりをみせていきました。
(続きは、浄土宗の宗祖⑧にて)

2014年01月27日
浄土宗の宗祖⑥
2014年01月26日
浄土宗の宗祖⑤
そしてあるとき、「往生要集」のなかに引用された善導著「観無量寿経疏」に出会います。このなかの一文にふれた法然は「南無阿弥陀仏を称えれば、誰でも極楽浄土に往生できる」という教えを感得し、阿弥陀如来の救いを確信したとされています。
(続きは、浄土宗の宗祖⑥にて)

(続きは、浄土宗の宗祖⑥にて)

2014年01月25日
浄土宗の宗祖④
比叡山で十二年間修行した法然は、二十四歳のとき比叡山をおり、奈良に遊学します。永観、珍海の浄土教を学びました。しかし仏教の真髄には到達せず、ふたたび黒谷に戻り、以後二十年間近くひたすら念仏修行に励みました。
(続きは、浄土宗の宗祖⑤にて)

(続きは、浄土宗の宗祖⑤にて)

2014年01月24日
浄土宗の宗祖③
2014年01月23日
浄土宗の宗祖②
そして十八歳のとき、阿弥陀如来への信仰がさかんで念仏修行が行われていた西塔黒谷に移り、叡空の弟子となりました。戒律や念仏を学び、源信の著した「往生要集」についての講義も受けました。法然は、この黒谷で念仏の教えにふれ、大きな影響を受けました。法然の思想的基盤は、このときにつくられたのです。
(続きは、浄土宗の宗祖③にて)

(続きは、浄土宗の宗祖③にて)

2014年01月22日
浄土宗の宗祖①
平安時代末期から鎌倉時代のはじめにかけて、日本は戦乱・天災・疫病などに次々と見舞われました。法然が浄土宗を開いたのは、人々がそんな不安と絶望の真っ只中にあった時代です。
法然は一一三三年(長承二年)美作国(岡山県)の官吏の家に生まれました。九歳のときに夜討ちで父を失うと菩提寺の住職であった叔父のもとに引き取られ、十三歳で比叡山にのぼりました。二年後には皇円のもとで出家し、受戒して天台の教えなどを学びました。
(続きは、浄土宗の宗祖②にて)

法然は一一三三年(長承二年)美作国(岡山県)の官吏の家に生まれました。九歳のときに夜討ちで父を失うと菩提寺の住職であった叔父のもとに引き取られ、十三歳で比叡山にのぼりました。二年後には皇円のもとで出家し、受戒して天台の教えなどを学びました。
(続きは、浄土宗の宗祖②にて)
