2014年03月09日
臨済宗の宗祖⑩
栄西はまた、中国から茶を持ち帰り、九州の脊振山(福岡県と佐賀県の県境に位置する)に種をまいたことでも知られています。茶自体はそれ以前にも伝わっていましたが、本格的な栽培がはじまったのはこのときがはじめてです。栄西が「茶祖」とよばれる所以です。
三代将軍・源実朝が二日酔いに苦しんでいるのを見て、茶の効能を記した「喫茶養生記」を献上し、茶をすすめたという話もよく知られるところです。
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臨済宗の宗祖①~⑨

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2014年03月08日
臨済宗の宗祖⑨
幕府に接近して布教を合法化させ、東大寺の僧正にまで出世するなど、栄西は政治的な能力にも秀でていました。権勢否定の立場を取りつづけていた法然などとは対照的な生き方です。
そのため栄西は、権威に妥協しすぎるとして批判を受けることもあります。しかし、それもみな日本に禅を定着させ、臨済宗を発展させようとする強い信念にもとづいての行動だったのです。
(続きは、臨済宗の宗祖⑩にて)

そのため栄西は、権威に妥協しすぎるとして批判を受けることもあります。しかし、それもみな日本に禅を定着させ、臨済宗を発展させようとする強い信念にもとづいての行動だったのです。
(続きは、臨済宗の宗祖⑩にて)

2014年03月07日
臨済宗の宗祖⑧
こうして栄西は臨済宗の宗祖となったわけですが、栄西の禅は、純粋な禅ではありませんでした。密教(天台密教)と禅の思想をあわせもち、密教僧の立場で禅を説きました。これを兼修禅といいます。
建仁寺にしても当時は天台、真言、禅の三宗兼学道場で、栄西は臨済宗の独立より、天台密教の復興に力を注いでいたといわれています。
(続きは、臨済宗の宗祖⑨にて)

建仁寺にしても当時は天台、真言、禅の三宗兼学道場で、栄西は臨済宗の独立より、天台密教の復興に力を注いでいたといわれています。
(続きは、臨済宗の宗祖⑨にて)

2014年03月06日
臨済宗の宗祖⑦
鎌倉での栄西は、二代将軍・源頼家や北条政子の帰依を受け、幕府の庇護のもと、鎌倉武士たちに禅を広めていきました。
一二〇二年(建仁二年)には頼家から寄進された土地に建仁寺を建立し、念願だった京都への帰還を果たします。この建仁寺創建のときをもって、日本臨済宗の開宗とされています。
(続きは、臨済宗の宗祖⑧にて)

一二〇二年(建仁二年)には頼家から寄進された土地に建仁寺を建立し、念願だった京都への帰還を果たします。この建仁寺創建のときをもって、日本臨済宗の開宗とされています。
(続きは、臨済宗の宗祖⑧にて)

2014年03月05日
臨済宗の宗祖⑥
それと同時に、戒律を守ることの必要性も主張しました。これは比叡山の堕落した僧への批判にほかなりません。
しかし、それでも旧仏教界の圧迫は一向におさまらなかったため、栄西は幕府の力を頼り、鎌倉にくだりました。
(続きは、臨済宗の宗祖⑦にて)

しかし、それでも旧仏教界の圧迫は一向におさまらなかったため、栄西は幕府の力を頼り、鎌倉にくだりました。
(続きは、臨済宗の宗祖⑦にて)

2014年03月04日
臨済宗の宗祖⑤
旧仏教界からの圧力で京都に入れなくなってしまった栄西は、数年間九州各地を転々として暮らし、禅の正当性を主張するために「興禅護国論」を著します。
この書では、自分の説く禅は、かつて最澄が説いた禅に等しいと主張します。そして天台宗の復興が本来の目的であると述べ、排斥から逃れようとしました。
(続きは、臨済宗の宗祖⑥にて)

この書では、自分の説く禅は、かつて最澄が説いた禅に等しいと主張します。そして天台宗の復興が本来の目的であると述べ、排斥から逃れようとしました。
(続きは、臨済宗の宗祖⑥にて)

2014年03月03日
臨済宗の宗祖④
栄西は懐敞のもとで五年間禅を学び、教えを受け継いで肥前国(長崎県)平戸に帰着します。源平の対立が終わり、東国で源氏が政権を握った頃のことです。
帰国後の栄西は九州に報恩寺、千光寺、聖福寺などの禅寺を次々に開き、禅の普及につとめました。しかし、こうした動きが比叡山などの旧仏教界から怒りをかいます。禅停止の命令が下されました。
(続きは、臨済宗の宗祖⑤にて)

帰国後の栄西は九州に報恩寺、千光寺、聖福寺などの禅寺を次々に開き、禅の普及につとめました。しかし、こうした動きが比叡山などの旧仏教界から怒りをかいます。禅停止の命令が下されました。
(続きは、臨済宗の宗祖⑤にて)

2014年03月02日
臨済宗の宗祖③
比叡山では密教の修行に励み、一一六八年(仁安三年)二十八歳で宋にわたりました。栄西はこのとき禅宗に出会い強い関心を抱きましたが、帰国してからの二十年間は密教僧として活躍しました。
二度目の入宋は一一八七年(文治三年)四七歳のときのことです。当初は宋からインドにわたり、釈尊の聖地を巡る予定でした。ところが遊牧民対策として国境が閉ざされていたため、インド行きを断念します。天台山万年寺の臨在僧・虚庵懐敞に師事することを決意しました。
(続きは、臨済宗の宗祖④にて)

二度目の入宋は一一八七年(文治三年)四七歳のときのことです。当初は宋からインドにわたり、釈尊の聖地を巡る予定でした。ところが遊牧民対策として国境が閉ざされていたため、インド行きを断念します。天台山万年寺の臨在僧・虚庵懐敞に師事することを決意しました。
(続きは、臨済宗の宗祖④にて)

2014年03月01日
臨済宗の宗祖②
だがその後、禅はしだいに衰えていき、しばらく脚光を浴びることはありませんでした。そんな禅にふたたび光をあて、興隆の基礎を築いた人物が臨済宗の宗祖・栄西です。
一一四一年(保延七年)備中国(岡山県)にある吉備津神社の神官の家に生まれた栄西は、十四歳で比叡山にのぼり出家します。神官を目指さず仏教に身を投じたのは、仏教に傾倒していた父の影響が大きかったからといわれています。
(続きは、臨済宗の宗祖③にて)

一一四一年(保延七年)備中国(岡山県)にある吉備津神社の神官の家に生まれた栄西は、十四歳で比叡山にのぼり出家します。神官を目指さず仏教に身を投じたのは、仏教に傾倒していた父の影響が大きかったからといわれています。
(続きは、臨済宗の宗祖③にて)

2014年02月28日
臨済宗の宗祖①
鎌倉仏教の潮流の一つは、坐禅によって悟りを得る禅の教えです。
禅の日本への初伝は、飛鳥時代のことでした。六五三年(白雉四年)に入唐し、玄奘に師事した道昭が法相宗とともに禅を伝えました。天台宗の宗祖・最澄も唐で禅を修め、天台宗の根本である四本の柱、つまり円・戒・禅・密の一柱に加えています。
(続きは、臨済宗の宗祖②にて)

禅の日本への初伝は、飛鳥時代のことでした。六五三年(白雉四年)に入唐し、玄奘に師事した道昭が法相宗とともに禅を伝えました。天台宗の宗祖・最澄も唐で禅を修め、天台宗の根本である四本の柱、つまり円・戒・禅・密の一柱に加えています。
(続きは、臨済宗の宗祖②にて)
