2014年03月19日
曹洞宗の宗祖⑩
また道元は、自身の教えが唯一無二だと考えたため「宗」という枠にくくられることを拒みました。彼の教えを禅宗、または曹洞宗とよぶようになったのは、弟子によって教団の民衆化がはかられてからのことです。
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2014年03月18日
曹洞宗の宗祖⑨
道元の思想の根本は、ただひたすら坐禅に励む只管打坐にあります。全身全霊で坐禅することによって身心脱落が可能になり、ほかの修行はいっさい必要ないと説いています。修行して悟りを得るのではなく、坐禅そのものが悟りなのです。
(続きは、曹洞宗の宗祖⑩にて)

(続きは、曹洞宗の宗祖⑩にて)

2014年03月17日
曹洞宗の宗祖⑧
道元の教えはしだいに広まり弟子も増え、教団は急速に発展しました。そのため、旧仏教界から激しい弾圧を受けることになります。道元は「護国正法義」を著して、自分の教える禅こそが正法であると主張します。しかし弾圧はますます激化したので、迫害を避けるため越前(福井県)に移り、一二四四年(寛元二年)大仏寺(後の永平寺)を開きます。
四八歳のときには、北条時頼の招きを受けて鎌倉に赴き、時頼に説法をしました。
その後半年で永平寺に戻りましたが、一二五三年(建長五年)五四歳のときに病で亡くなりました。
(続きは、曹洞宗の宗祖⑨にて)

四八歳のときには、北条時頼の招きを受けて鎌倉に赴き、時頼に説法をしました。
その後半年で永平寺に戻りましたが、一二五三年(建長五年)五四歳のときに病で亡くなりました。
(続きは、曹洞宗の宗祖⑨にて)

2014年03月16日
曹洞宗の宗祖⑦
悟りを得た道元は、帰国して建仁寺や深草の安養院で教えを説き、著述に励みました。三四歳のときには曹洞禅の根本道場として宇治の興聖寺を建て、一〇年間坐禅を教えました。道元の代表的著作「正法眼蔵」はこの頃に書かれたものです。
(続きは、曹洞宗の宗祖⑧にて)

(続きは、曹洞宗の宗祖⑧にて)

2014年03月15日
曹洞宗の宗祖⑥
道元がそれまで抱いていた「人は本来仏性をもっているのだから、坐禅などの修行は必要ないのではないか」という疑問への答えも、このとき得られました。坐禅は仏になるための修行ではなく、仏そのものです。何のために坐禅するかという疑問自体が囚われで、目的のためではなく、ただ坐禅をすることがすべてだと悟ったのです。これを只管打坐といいます。
(続きは、曹洞宗の宗祖⑦にて)

(続きは、曹洞宗の宗祖⑦にて)

2014年03月14日
曹洞宗の宗祖⑤
ある日、坐禅中に居眠りをしている僧をみつけた如浄が「坐禅は身心脱落にあるのに、居眠りするとは何事か」と厳しく叱りました。すると道元は、日常のあらゆる行ないがそのまま仏の行ないであるという境地に達し、それまで自分を縛ってきた疑問から一気に解放されたといいます。
身心脱落とは、自分を束縛するさまざまな迷いから解放され、何物にもとらわれない自由な境地に達することを意味しています。
(続きは、曹洞宗の宗祖⑥にて)

身心脱落とは、自分を束縛するさまざまな迷いから解放され、何物にもとらわれない自由な境地に達することを意味しています。
(続きは、曹洞宗の宗祖⑥にて)

2014年03月13日
曹洞宗の宗祖④
入宋は一二二三年(貞応二年)二四歳のときに実現します。明全とともに宋にわたり、正師を求めて中国各地を巡りました。そしてついに、天童山で如浄との対面を果たします。出会った瞬間、この人物こそ正師であると直感し、如浄もまた道元の力量を見抜いたといいます。
如浄のもとで修行に励んだ道元は、わずか三、四ヵ月後に「身心脱落、脱落身心」の境地に至り、悟りを得ました。
(続きは、曹洞宗の宗祖⑤にて)

如浄のもとで修行に励んだ道元は、わずか三、四ヵ月後に「身心脱落、脱落身心」の境地に至り、悟りを得ました。
(続きは、曹洞宗の宗祖⑤にて)

2014年03月12日
曹洞宗の宗祖③
道元は十八歳のときに比叡山を降り、三井寺の公胤に教えを受けましたが、満足はできませんでした。建仁寺で栄西の弟子・明全に師事し、臨済禅を学ぶことも試みました。しかし、ここでも納得のいく答えが得られません。道元は日本の高僧、ひいては仏教界に失望し、中国への渡航を望むようになりました。
(続きは、曹洞宗の宗祖④にて)

(続きは、曹洞宗の宗祖④にて)

2014年03月11日
曹洞宗の宗祖②
比叡山で公円についた道元は、天台の教えを学ぶなかで重大な疑問にぶつかりました。天台宗の基本思想である「本来本法性・天然自性身」についての疑問です。これは「人は誰でも仏性(仏になる性質)をもっており、生まれながらにして仏である」という教えです。
道元の頭からは「それならなぜ修行するのか。もともと仏であるなら修行など必要ないではないか」という疑問が一時も離れず、悩み続けたといいます。
(続きは、曹洞宗の宗祖③にて)

道元の頭からは「それならなぜ修行するのか。もともと仏であるなら修行など必要ないではないか」という疑問が一時も離れず、悩み続けたといいます。
(続きは、曹洞宗の宗祖③にて)

2014年03月10日
曹洞宗の宗祖①
鎌倉仏教の諸宗派は末法の世からの救済を説くのが一般的ですが、末法思想を否定し、自身の教団を「宗」と見なすことさえ誤りだとした異色の僧がいます。曹洞宗の宗祖・道元です。
道元は一二〇〇年(正治二年)京都の宇治で源氏の系統をひく名門の家柄に生まれました。彼が望めば、政治家としての将来は約束されていました。ところが政治の世界には入らず、十三歳で比叡山にのぼり出家します。三歳で父を、八歳で母を亡くし、深い無常観にあったことが出家への契機となったようです。
(続きは、曹洞宗の宗祖②にて)

道元は一二〇〇年(正治二年)京都の宇治で源氏の系統をひく名門の家柄に生まれました。彼が望めば、政治家としての将来は約束されていました。ところが政治の世界には入らず、十三歳で比叡山にのぼり出家します。三歳で父を、八歳で母を亡くし、深い無常観にあったことが出家への契機となったようです。
(続きは、曹洞宗の宗祖②にて)
