2014年04月12日
天台宗の宗祖⑨
晩年の最澄は、五六歳でこの世を去るまで天台宗の発展と僧侶の育成に全力を傾けました。
彼の最大の功績は、比叡山を真の仏教家を育てる教育機関にしたことです。努力の甲斐あって比叡山は日本仏教の総合大学といわれるような寺院になり、浄土宗・浄土真宗・時宗・臨済宗・曹洞宗・日蓮宗などの宗派を次々と生むことになったのです。
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天台宗の宗祖①~⑧

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2014年04月11日
天台宗の宗祖⑧
空海が最澄の借用申請を拒んだ理由は、最澄が密教秘法の伝授に不可欠な前行を修得していないからでした。
最澄も天台宗の宗祖という立場上、いまさら真言密教の修行僧となるわけにもいかず、これ以降、二人の関係は断絶してしまいます。
最澄の密教は弟子の円仁・円珍に受け継がれ、彼らによって天台密教が確立されました。
(続きは、天台宗の宗祖⑨にて)

最澄も天台宗の宗祖という立場上、いまさら真言密教の修行僧となるわけにもいかず、これ以降、二人の関係は断絶してしまいます。
最澄の密教は弟子の円仁・円珍に受け継がれ、彼らによって天台密教が確立されました。
(続きは、天台宗の宗祖⑨にて)

2014年04月10日
天台宗の宗祖⑦
二人の関係は、はじめのうちはうまくいっていました。しかし、やがて破局の日を迎えることになります。
空海が唐から持ち帰った密教経典のなかでもっとも重要なものの一つ「理趣釈経」を最澄に貸さなかったことが訣別の要因といわれています。
(続きは、天台宗の宗祖⑧にて)

空海が唐から持ち帰った密教経典のなかでもっとも重要なものの一つ「理趣釈経」を最澄に貸さなかったことが訣別の要因といわれています。
(続きは、天台宗の宗祖⑧にて)

2014年04月09日
天台宗の宗祖⑥
当時、桓武天皇は重い病の床にあり、最澄は密教の秘法によって病気平癒を祈祷しました。しかし、すでに臨終が迫っていた天皇には効き目がありませんでした。
そこに、正統な密教秘法を修得した空海が帰国してきます。最澄は空海が七歳も年下の無名僧であるにもかかわらず、密教の教えを請い、師と仰ぎました。
当時の最澄は、朝廷に重んじられている高僧です。自分よりはるか下の立場にある僧侶を師と仰いでいるところからも、彼が仏教に関していかに純粋だったかがわかります。そして同時に、この一件が空海の名を世に知らしめる契機になりました。
(続きは、天台宗の宗祖⑦にて)

そこに、正統な密教秘法を修得した空海が帰国してきます。最澄は空海が七歳も年下の無名僧であるにもかかわらず、密教の教えを請い、師と仰ぎました。
当時の最澄は、朝廷に重んじられている高僧です。自分よりはるか下の立場にある僧侶を師と仰いでいるところからも、彼が仏教に関していかに純粋だったかがわかります。そして同時に、この一件が空海の名を世に知らしめる契機になりました。
(続きは、天台宗の宗祖⑦にて)

2014年04月08日
天台宗の宗祖⑤
最澄は一年たらずで天台の奥義を修得し、密教も学んで帰国します。同じ船で唐にわたった空海よりも、一年早く密教を日本に持ち帰ったのです。
しかし最澄は、密教秘法の伝授に欠かせない前行という荒行を体得していなかったので、彼の密教は不完全なものでした。
(続きは、天台宗の宗祖⑥にて)

しかし最澄は、密教秘法の伝授に欠かせない前行という荒行を体得していなかったので、彼の密教は不完全なものでした。
(続きは、天台宗の宗祖⑥にて)

2014年04月07日
天台宗の宗祖④
すると、この頃奈良から京都に都を移そうとしていた桓武天皇が最澄を訪ねてきます。京都の北東・鬼門の方角にあたる比叡山を聖地として、怨霊から新しい都を守ってほしいといわれました。この要請を機に、最澄は朝廷で重要な位置を占めるようになりました。
そして八〇四年(延暦二三年)最澄は天台の教えをきわめるため、公費の還学生として遣唐使に加わり唐にわたりました。無名の留学生だった空海とちがい、公費の還学生は多くのことを学んで、できるだけ早く国に戻るよう求められていました。
(続きは、天台宗の宗祖⑤にて)

そして八〇四年(延暦二三年)最澄は天台の教えをきわめるため、公費の還学生として遣唐使に加わり唐にわたりました。無名の留学生だった空海とちがい、公費の還学生は多くのことを学んで、できるだけ早く国に戻るよう求められていました。
(続きは、天台宗の宗祖⑤にて)

2014年04月06日
天台宗の宗祖③
平安時代の奈良仏教は、出世栄達や金満主義がまかり通っており、堕落した僧侶たちが多くいました。そんな奈良仏教に絶望していたとき、「法華経」をはじめとした天台宗の経典に巡り合いました。最澄は自分が求めていたものはこれだと直感し、天台の修行のため、比叡山に入りました。
山にこもって三年目になると、同志とともに比叡山寺(いまの延暦寺)を開き、修行の生活をさらに一〇年近くつづけました。
(続きは、天台宗の宗祖④にて)

山にこもって三年目になると、同志とともに比叡山寺(いまの延暦寺)を開き、修行の生活をさらに一〇年近くつづけました。
(続きは、天台宗の宗祖④にて)

2014年04月05日
天台宗の宗祖②
最澄は七六七年(神護景雲元年)近江国(滋賀県)の有力な農民の家に生まれました。一二歳で国分寺に入り、一五歳で得度します。一九歳になると東大寺で授戒して、年間一〇人程度しか認められない朝廷の正式な僧侶になりました。これは、最澄がエリートコースに乗って前途洋々だったことを示しています。
しかし最澄は正式な僧侶になったとたん、その栄誉をすべて捨て、比叡山にこもってしまいます。いったい、何があったのでしょうか。
(続きは、天台宗の宗祖③にて)

しかし最澄は正式な僧侶になったとたん、その栄誉をすべて捨て、比叡山にこもってしまいます。いったい、何があったのでしょうか。
(続きは、天台宗の宗祖③にて)

2014年04月04日
天台宗の宗祖①
最澄は空海と並び、日本仏教を代表する名僧です。空海が真言宗を開いたのに対し、最澄は天台宗を開き、二人で平安時代の仏教界を牽引していきました。
密教といえば、一般に空海の真言密教(東密)をさすことが多いですが、最澄も天台密教(台密)を説いています。ただし、最澄は密教よりも「法華経」の教えに重きを置いていたため、台密の完成は円仁・円珍の時代を待たなければなりませんでした。
(続きは、天台宗の宗祖②にて)

密教といえば、一般に空海の真言密教(東密)をさすことが多いですが、最澄も天台密教(台密)を説いています。ただし、最澄は密教よりも「法華経」の教えに重きを置いていたため、台密の完成は円仁・円珍の時代を待たなければなりませんでした。
(続きは、天台宗の宗祖②にて)
