2014年03月29日
日蓮宗の宗祖⑩
やがて健康を害して一二八二年(弘安五年)常陸国(茨城県)に湯治にいく途中、武蔵国(東京都)の信者宅で六一年の波乱の生涯を終えます。
熱烈な信仰心をもち、過激な折伏行動を繰り返した日蓮は、まさに革命児とよばれるにふさわしい生涯を送ったのでした。
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2014年03月28日
日蓮宗の宗祖⑨
相次ぐ弾圧で、日蓮の教団は壊滅状態になります。しかし日蓮はこうした苦難のなかにあって「開目抄」「観心本尊抄」といった書を著すなど、法華信仰に生きました。
一二七四年(文永一一年)流罪を解かれて鎌倉に戻ると、三たび幕府に「法華経」への帰依を進言し、今度も退けられて鎌倉を去ることになりましたが、日蓮はめげません。
身延山に落ち着いてからは弟子の教育と著述につとめ、この間に重要な著述も多数残されました。
(続きは、日蓮宗の宗祖⑩にて)

一二七四年(文永一一年)流罪を解かれて鎌倉に戻ると、三たび幕府に「法華経」への帰依を進言し、今度も退けられて鎌倉を去ることになりましたが、日蓮はめげません。
身延山に落ち着いてからは弟子の教育と著述につとめ、この間に重要な著述も多数残されました。
(続きは、日蓮宗の宗祖⑩にて)

2014年03月27日
日蓮宗の宗祖⑧
判決は死刑、ところが龍口で斬首されようとしているときに奇跡が起こって刀を逃れ、佐渡への流罪ですまされました。(龍口の法難)
佐渡での三年間は、荒れ果てた草堂で孤独な流人生活を送りました。佐渡は親鸞が流された越後に近かったため、ここでも親鸞門徒の攻撃がつづきました。
(続きは、日蓮宗の宗祖⑨にて)

佐渡での三年間は、荒れ果てた草堂で孤独な流人生活を送りました。佐渡は親鸞が流された越後に近かったため、ここでも親鸞門徒の攻撃がつづきました。
(続きは、日蓮宗の宗祖⑨にて)

2014年03月26日
日蓮宗の宗祖⑦
二年間の流人生活を終えて安房に戻ったものの、一二六四年(文永元年)にまたも念仏信者から襲撃を受けて弟子二人が殉教します。自身も額に刀傷を受ける事件が起こりました。(小松原の法難)一命をとりとめた日蓮は、屈せずに鎌倉に戻って精力的に布教を行ないました。
この頃、元から国書が届けられ、蒙古襲来の危機が迫ったため、日蓮はふたたび「立正安国論」を幕府に呈上しましたが、またもや捕えられることになります。
(続きは、日蓮宗の宗祖⑧にて)

この頃、元から国書が届けられ、蒙古襲来の危機が迫ったため、日蓮はふたたび「立正安国論」を幕府に呈上しましたが、またもや捕えられることになります。
(続きは、日蓮宗の宗祖⑧にて)

2014年03月25日
日蓮宗の宗祖⑥
その翌年、鎌倉で布教を再開したときにも、念仏信者らは日蓮を危険人物として幕府に訴え、伊豆国の伊東に流罪にされました。(伊豆の法難)
これ以降は法難の連続で、日蓮は自ら「少々の難は数知れず、大難四箇度なり」と語っています。大きな法難を四回も受けたのは、他宗派を激烈に批判する折伏の行動に原因があったとされています。
(続きは、日蓮宗の宗祖⑦にて)

これ以降は法難の連続で、日蓮は自ら「少々の難は数知れず、大難四箇度なり」と語っています。大きな法難を四回も受けたのは、他宗派を激烈に批判する折伏の行動に原因があったとされています。
(続きは、日蓮宗の宗祖⑦にて)

2014年03月24日
日蓮宗の宗祖⑤
日蓮は天変地異が相次ぐ原因を、念仏をはじめとする邪教が蔓延しているせいだと解釈しました。そして「立正安国論」を著し、念仏を捨てて「法華経」に帰依すべきだと前執権・北条時頼に迫りました。ところが念仏信者に日蓮こそ邪教であると反論され、一二六〇年(文応元年)、草庵を襲撃されてしまいます。(松葉ヶ谷の法難)
(続きは、日蓮宗の宗祖⑥にて)

(続きは、日蓮宗の宗祖⑥にて)

2014年03月23日
日蓮宗の宗祖④
故郷を追われた日蓮は、鎌倉の松葉ヶ谷に本拠を移します。そこで布教をはじめると、多くの信者が集まってきました。幕府が置かれている鎌倉という土地柄、信者には中下層の武士が多くいました。
そんなとき、鎌倉が大地震に見舞われます。家々が倒壊し、見るも無残な状況に、人々はいよいよ末法の世を実感したのでした。
(続きは、日蓮宗の宗祖⑤にて)

そんなとき、鎌倉が大地震に見舞われます。家々が倒壊し、見るも無残な状況に、人々はいよいよ末法の世を実感したのでした。
(続きは、日蓮宗の宗祖⑤にて)

2014年03月22日
日蓮宗の宗祖③
その結果、「法華経」こそが真の教えであると確信した日蓮は、安房に戻って「法華経」の教えを説き、ほかの宗派もすべて「法華経」にしたがうべきだと主張します。念仏の教えを信じる人々には激しい批判を加えました。
しかし、この過激な独善性が他宗から猛反発を招くことになります。他宗の僧侶は幕府に訴え、日蓮を安房から追放してしまいました。
(続きは、日蓮宗の宗祖④にて)

しかし、この過激な独善性が他宗から猛反発を招くことになります。他宗の僧侶は幕府に訴え、日蓮を安房から追放してしまいました。
(続きは、日蓮宗の宗祖④にて)

2014年03月21日
日蓮宗の宗祖②
一二歳で生家近くの清澄山にのぼり、一六歳のときに出家していますが、そのきっかけになったのは、生死への疑問、社会への疑問、仏教界への疑問という三つの疑問です。生死に関する疑問が社会に関する疑問を生み、それは仏教に対する疑問にまでおよびました。鎌倉時代には、多くの宗派が興っています。釈尊の教えは一つのはずなのに、さまざまな宗派が存在するのはなぜなのか。
日蓮はその点にもっとも大きな疑念を持ち、鎌倉・京都・比叡山・高野山などの各宗派の寺で学んだのでした。
(続きは、日蓮宗の宗祖③にて)

日蓮はその点にもっとも大きな疑念を持ち、鎌倉・京都・比叡山・高野山などの各宗派の寺で学んだのでした。
(続きは、日蓮宗の宗祖③にて)

2014年03月20日
日蓮宗の宗祖①
日蓮は「法華経」の教えを広めることに生涯をささげ、どんな迫害にも屈しなかったため、仏教界の革命児とされています。
日蓮が生まれたのは一二二二年(貞応元年)のことです。浄土宗の法然が亡くなって一〇年、臨済宗の栄西が亡くなって七年がたった頃です。親は安房国(千葉県)の漁夫でした。
(続きは、日蓮宗の宗祖②にて)

日蓮が生まれたのは一二二二年(貞応元年)のことです。浄土宗の法然が亡くなって一〇年、臨済宗の栄西が亡くなって七年がたった頃です。親は安房国(千葉県)の漁夫でした。
(続きは、日蓮宗の宗祖②にて)

2014年03月19日
曹洞宗の宗祖⑩
また道元は、自身の教えが唯一無二だと考えたため「宗」という枠にくくられることを拒みました。彼の教えを禅宗、または曹洞宗とよぶようになったのは、弟子によって教団の民衆化がはかられてからのことです。
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2014年03月18日
曹洞宗の宗祖⑨
道元の思想の根本は、ただひたすら坐禅に励む只管打坐にあります。全身全霊で坐禅することによって身心脱落が可能になり、ほかの修行はいっさい必要ないと説いています。修行して悟りを得るのではなく、坐禅そのものが悟りなのです。
(続きは、曹洞宗の宗祖⑩にて)

(続きは、曹洞宗の宗祖⑩にて)

2014年03月17日
曹洞宗の宗祖⑧
道元の教えはしだいに広まり弟子も増え、教団は急速に発展しました。そのため、旧仏教界から激しい弾圧を受けることになります。道元は「護国正法義」を著して、自分の教える禅こそが正法であると主張します。しかし弾圧はますます激化したので、迫害を避けるため越前(福井県)に移り、一二四四年(寛元二年)大仏寺(後の永平寺)を開きます。
四八歳のときには、北条時頼の招きを受けて鎌倉に赴き、時頼に説法をしました。
その後半年で永平寺に戻りましたが、一二五三年(建長五年)五四歳のときに病で亡くなりました。
(続きは、曹洞宗の宗祖⑨にて)

四八歳のときには、北条時頼の招きを受けて鎌倉に赴き、時頼に説法をしました。
その後半年で永平寺に戻りましたが、一二五三年(建長五年)五四歳のときに病で亡くなりました。
(続きは、曹洞宗の宗祖⑨にて)

2014年03月16日
曹洞宗の宗祖⑦
悟りを得た道元は、帰国して建仁寺や深草の安養院で教えを説き、著述に励みました。三四歳のときには曹洞禅の根本道場として宇治の興聖寺を建て、一〇年間坐禅を教えました。道元の代表的著作「正法眼蔵」はこの頃に書かれたものです。
(続きは、曹洞宗の宗祖⑧にて)

(続きは、曹洞宗の宗祖⑧にて)

2014年03月15日
曹洞宗の宗祖⑥
道元がそれまで抱いていた「人は本来仏性をもっているのだから、坐禅などの修行は必要ないのではないか」という疑問への答えも、このとき得られました。坐禅は仏になるための修行ではなく、仏そのものです。何のために坐禅するかという疑問自体が囚われで、目的のためではなく、ただ坐禅をすることがすべてだと悟ったのです。これを只管打坐といいます。
(続きは、曹洞宗の宗祖⑦にて)

(続きは、曹洞宗の宗祖⑦にて)

2014年03月14日
曹洞宗の宗祖⑤
ある日、坐禅中に居眠りをしている僧をみつけた如浄が「坐禅は身心脱落にあるのに、居眠りするとは何事か」と厳しく叱りました。すると道元は、日常のあらゆる行ないがそのまま仏の行ないであるという境地に達し、それまで自分を縛ってきた疑問から一気に解放されたといいます。
身心脱落とは、自分を束縛するさまざまな迷いから解放され、何物にもとらわれない自由な境地に達することを意味しています。
(続きは、曹洞宗の宗祖⑥にて)

身心脱落とは、自分を束縛するさまざまな迷いから解放され、何物にもとらわれない自由な境地に達することを意味しています。
(続きは、曹洞宗の宗祖⑥にて)

2014年03月13日
曹洞宗の宗祖④
入宋は一二二三年(貞応二年)二四歳のときに実現します。明全とともに宋にわたり、正師を求めて中国各地を巡りました。そしてついに、天童山で如浄との対面を果たします。出会った瞬間、この人物こそ正師であると直感し、如浄もまた道元の力量を見抜いたといいます。
如浄のもとで修行に励んだ道元は、わずか三、四ヵ月後に「身心脱落、脱落身心」の境地に至り、悟りを得ました。
(続きは、曹洞宗の宗祖⑤にて)

如浄のもとで修行に励んだ道元は、わずか三、四ヵ月後に「身心脱落、脱落身心」の境地に至り、悟りを得ました。
(続きは、曹洞宗の宗祖⑤にて)

2014年03月12日
曹洞宗の宗祖③
道元は十八歳のときに比叡山を降り、三井寺の公胤に教えを受けましたが、満足はできませんでした。建仁寺で栄西の弟子・明全に師事し、臨済禅を学ぶことも試みました。しかし、ここでも納得のいく答えが得られません。道元は日本の高僧、ひいては仏教界に失望し、中国への渡航を望むようになりました。
(続きは、曹洞宗の宗祖④にて)

(続きは、曹洞宗の宗祖④にて)

2014年03月11日
曹洞宗の宗祖②
比叡山で公円についた道元は、天台の教えを学ぶなかで重大な疑問にぶつかりました。天台宗の基本思想である「本来本法性・天然自性身」についての疑問です。これは「人は誰でも仏性(仏になる性質)をもっており、生まれながらにして仏である」という教えです。
道元の頭からは「それならなぜ修行するのか。もともと仏であるなら修行など必要ないではないか」という疑問が一時も離れず、悩み続けたといいます。
(続きは、曹洞宗の宗祖③にて)

道元の頭からは「それならなぜ修行するのか。もともと仏であるなら修行など必要ないではないか」という疑問が一時も離れず、悩み続けたといいます。
(続きは、曹洞宗の宗祖③にて)

2014年03月11日
初夏に向けて(*^_^*)
おはようございます(^O^)/
暖かな陽気でいよいよ春モードですね(*^_^*)

初夏に向けて、畑にグリーンボール・ブロッコリー・スナックエンドウを植えました(*^。^*)
いまから初夏の収穫が楽しみです♪
暖かな陽気でいよいよ春モードですね(*^_^*)

初夏に向けて、畑にグリーンボール・ブロッコリー・スナックエンドウを植えました(*^。^*)
いまから初夏の収穫が楽しみです♪