2014年06月07日
禅系宗派の文化・しきたり㉜
粗食の日々を送っている禅寺の僧侶に健康で長寿の人が多いのは、精進料理が修行のなかにあって食べる食事だからでしょう。日の出とともに起きて畑仕事、掃除などの作務に励み、坐禅で心を安定させます。そんな日々を送れば、健康も維持できます。
精進料理で健康になるのではなく、仏道に励むことが健康を生みます。それが禅寺の精進料理なのです。
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禅系宗派の文化・しきたり①~㉛

精進料理で健康になるのではなく、仏道に励むことが健康を生みます。それが禅寺の精進料理なのです。
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2014年06月06日
禅系宗派の文化・しきたり㉛
最近は、粗食がブームになっています。健康にいいからと、精進料理をわざわざお店に食べに行く人も少なくありません。しかし禅寺の食事は菜食を中心とした一汁一菜の、本当の意味での簡素な食事です。お店の贅沢な精進料理とはちがうので、勘違いしないようにしなくてはなりません。
(続きは、禅系宗派の文化・しきたり㉜にて)

(続きは、禅系宗派の文化・しきたり㉜にて)

2014年06月05日
禅系宗派の文化・しきたり㉚
いまにつづく精進料理は、これが禅寺で食べられる料理として発展したものです。
禅寺の食の考えをよくあらわしているのが、食前に唱える五観の偈(食事訓)です。
これには「食事ができあがるまでの手数を思い、素材がどのようにしてここまできたかを考える。食事を受けるに足る正しい行ないをしたか反省して供養を受ける。食事をいただくのは仏道を成就するためである・・・」などという五つの教えが説かれています。まさに「食もまた修行」なのです。
(続きは、禅系宗派の文化・しきたり㉛にて)

禅寺の食の考えをよくあらわしているのが、食前に唱える五観の偈(食事訓)です。
これには「食事ができあがるまでの手数を思い、素材がどのようにしてここまできたかを考える。食事を受けるに足る正しい行ないをしたか反省して供養を受ける。食事をいただくのは仏道を成就するためである・・・」などという五つの教えが説かれています。まさに「食もまた修行」なのです。
(続きは、禅系宗派の文化・しきたり㉛にて)

2014年06月04日
禅系宗派の文化・しきたり㉙
「精進料理」というと、たんに肉や魚を使わない料理をイメージする人が多いでしょう。
しかし、この精進料理にはもっと深い意味があります。
かつて仏教の原始教団には、ウポーサタ(布薩)という儀式がありました。信者が集まって、互いに戒律を守っているかどうか確認し合ったのです。それが日本に伝わると、在家信者が身を慎む精進日と融合します。精進潔斎の日ということで、肉食を避けはじめました。精進日には穀物と野菜だけでつくった料理が出されたため、その料理を精進料理と呼ぶようになったといいます。
(続きは、禅系宗派の文化・しきたり㉚にて)

しかし、この精進料理にはもっと深い意味があります。
かつて仏教の原始教団には、ウポーサタ(布薩)という儀式がありました。信者が集まって、互いに戒律を守っているかどうか確認し合ったのです。それが日本に伝わると、在家信者が身を慎む精進日と融合します。精進潔斎の日ということで、肉食を避けはじめました。精進日には穀物と野菜だけでつくった料理が出されたため、その料理を精進料理と呼ぶようになったといいます。
(続きは、禅系宗派の文化・しきたり㉚にて)

2014年06月03日
禅系宗派の文化・しきたり㉘
このほか釣鐘型をした花頭窓、四半敷きという床張り、柱と礎石の間に置かれる礎盤、庫裏の入り口の唐破風など、中国禅寺の建築の特徴を示す様式はたくさんあります。
これらはみな当時の最新スタイルで、やがて他宗派にも取り入れられるようになります。禅宗は日本の寺院建築にも新風を吹き込み、大きな変化をもたらしたのです。
(続きは、禅系宗派の文化・しきたり㉙にて)

これらはみな当時の最新スタイルで、やがて他宗派にも取り入れられるようになります。禅宗は日本の寺院建築にも新風を吹き込み、大きな変化をもたらしたのです。
(続きは、禅系宗派の文化・しきたり㉙にて)

2014年06月02日
禅系宗派の文化・しきたり㉗
一般に寺院の中心になる建物、つまり本堂は、きらびやかなイメージを想起させるよう「金堂」ともよばれますが、質素さを求める禅寺では仏殿、あるいは大雄宝殿とよびます。また他宗派の寺院で講堂にあたる建物は法堂といいます。
禅寺ではこの仏殿・法堂のほか、住職の暮らす方丈などが南北に一直線に並ぶ伽藍配置になっているところが多いです。
(続きは、禅系宗派の文化・しきたり㉘にて)

禅寺ではこの仏殿・法堂のほか、住職の暮らす方丈などが南北に一直線に並ぶ伽藍配置になっているところが多いです。
(続きは、禅系宗派の文化・しきたり㉘にて)

2014年06月01日
禅系宗派の文化・しきたり㉖
中国禅僧の指導のもとにつくられた当初の禅寺には、伽藍配置や建物の呼び名など、他宗派の寺院と異なる特徴がいくつかあります。
禅寺は基本的に金色、朱色などの派手な色は使わず、不必要に大きな建物もつくりません。
(続きは、禅系宗派の文化・しきたり㉗にて)

禅寺は基本的に金色、朱色などの派手な色は使わず、不必要に大きな建物もつくりません。
(続きは、禅系宗派の文化・しきたり㉗にて)

2014年05月31日
禅系宗派の文化・しきたり㉕
平安時代になると、比叡山や高野山のような山岳地帯につくられたため、不規則な伽藍配置になります。
そして鎌倉時代以降は、中国から禅が伝わったことによって禅宗様という中国風の形式がさかんになりました。
禅宗様の先鞭となったのが、一二五三年(建長五年)に建てられた建長寺です。開山したのは北条時頼に招かれた宋の禅僧・蘭渓道隆で、中国臨済宗の名刹・万福寺を模した当時最新の形式でした。
(続きは、禅系宗派の文化・しきたり㉖にて)

そして鎌倉時代以降は、中国から禅が伝わったことによって禅宗様という中国風の形式がさかんになりました。
禅宗様の先鞭となったのが、一二五三年(建長五年)に建てられた建長寺です。開山したのは北条時頼に招かれた宋の禅僧・蘭渓道隆で、中国臨済宗の名刹・万福寺を模した当時最新の形式でした。
(続きは、禅系宗派の文化・しきたり㉖にて)

2014年05月30日
禅系宗派の文化・しきたり㉔
寺院は建てられた時代、属する宗派によって建物の配置やつくりが異なります。
日本ではじめて寺院が建てられたのは、奈良時代のことです。寺院の建物を伽藍といいますが、当時の伽藍配置は金堂と塔が中心でした。法隆寺式・薬師寺式・東大寺式・飛鳥寺式などが代表例です。
(続きは、禅系宗派の文化・しきたり㉕にて)

日本ではじめて寺院が建てられたのは、奈良時代のことです。寺院の建物を伽藍といいますが、当時の伽藍配置は金堂と塔が中心でした。法隆寺式・薬師寺式・東大寺式・飛鳥寺式などが代表例です。
(続きは、禅系宗派の文化・しきたり㉕にて)

2014年05月29日
禅系宗派の文化・しきたり㉓
本格的な枯山水庭園は、臨済宗の禅僧・夢窓疎石が一四世紀につくった西芳寺の庭園にはじまります。またこの頃つくられたものとしては、大仙院の方丈東庭、龍安寺石庭、妙心寺退蔵院方丈西庭などがよく知られています。
(続きは、禅系宗派の文化・しきたり㉔にて)

(続きは、禅系宗派の文化・しきたり㉔にて)

2014年05月28日
禅系宗派の文化・しきたり㉒
この自由な見方が、すべてのこだわりを捨て、あるがままに生きることを目指す禅の精神に通じるのです。
じつは禅寺の庭に大きな影響を与え、枯山水庭園として発達させたのは、禅とともに日本に入ってきた宋・元の時代の水墨画だといいます。墨一色で風景を描ききる水墨画は、禅の境地と同じであったからです。
(続きは、禅系宗派の文化・しきたり㉓にて)

じつは禅寺の庭に大きな影響を与え、枯山水庭園として発達させたのは、禅とともに日本に入ってきた宋・元の時代の水墨画だといいます。墨一色で風景を描ききる水墨画は、禅の境地と同じであったからです。
(続きは、禅系宗派の文化・しきたり㉓にて)

2014年05月27日
禅系宗派の文化・しきたり㉑
しかし鎌倉時代後期から室町時代になると、仏教庭園は変化を見せます。山や水をいっさい廃した枯山水が登場したのです。
禅寺の枯山水庭園は白砂と石組だけの空間で、水を用いずに山やせせらぎ、大海に浮かぶ島々などの風景をあらわしています。
池で遊ぶことも散策することもできませんが、枯山水を見る人はそれぞれの発想で庭と向き合い、ついには自分を見つめなおして無の境地になろうとします。
(続きは、禅系宗派の文化・しきたり㉒にて)

禅寺の枯山水庭園は白砂と石組だけの空間で、水を用いずに山やせせらぎ、大海に浮かぶ島々などの風景をあらわしています。
池で遊ぶことも散策することもできませんが、枯山水を見る人はそれぞれの発想で庭と向き合い、ついには自分を見つめなおして無の境地になろうとします。
(続きは、禅系宗派の文化・しきたり㉒にて)

2014年05月26日
禅系宗派の文化・しきたり⑳
平安時代から鎌倉時代にかけての仏教庭園は、当時さかんだった浄土信仰の影響で極楽浄土のようすを表現した浄土庭園が多く、大きな池や山、草木が華麗に配されていました。貴族たちが財を競ってつくったこの庭園では、遊興・散策を楽しむことも可能でした。
(続きは、禅系宗派の文化・しきたり㉑にて)

(続きは、禅系宗派の文化・しきたり㉑にて)

2014年05月25日
禅系宗派の文化・しきたり⑲
塀に囲まれた庭には木も草も水もなく、あるのは白砂と石組だけ・・・。そんな禅寺の枯山水庭園を見て、いったい何をあらわしているのかと不思議に思ったことはないでしょうか。
仏教庭園の起源は、古代インドの神話に出てくる須弥山にあるといいます。須弥山は世界の中心にそびえる高い山で、仏教の宇宙観を表現したものです。
(続きは、禅系宗派の文化・しきたり⑳にて)

仏教庭園の起源は、古代インドの神話に出てくる須弥山にあるといいます。須弥山は世界の中心にそびえる高い山で、仏教の宇宙観を表現したものです。
(続きは、禅系宗派の文化・しきたり⑳にて)

2014年05月24日
禅系宗派の文化・しきたり⑱
禅の世界では、書を「有声の画」とよびます。何かを語りかけてくる絵のようだという意味です。書によって、あるがままの禅の精神をとらえることができるのです。
いっぽう、「無声の詩」とよばれるのが禅画です。禅画には師の肖像を描いた頂相や前衛的な禅機画、墨の濃淡で自然の風景をあらわす山水画などがあり、どれも禅の奥深さを感じさせます。
(続きは、禅系宗派の文化・しきたり⑲にて)

いっぽう、「無声の詩」とよばれるのが禅画です。禅画には師の肖像を描いた頂相や前衛的な禅機画、墨の濃淡で自然の風景をあらわす山水画などがあり、どれも禅の奥深さを感じさせます。
(続きは、禅系宗派の文化・しきたり⑲にて)

2014年05月23日
禅系宗派の文化・しきたり⑰
元が日本を襲撃した文永・弘安の役が終わると、元の禅僧も来朝するようになり、また日本の禅僧も入元して、宋・元の書風をもたらしました。
この頃の禅僧でとくに知られているのは、一山一寧です。彼は後宇田法皇の要請で南禅寺に入りました。これにより、禅と宋・元の文化は貴族階級にも広まることとなりました。一山は詩文と書にすぐれ、その影響で禅寺では書がさかんに行われました。この時代の禅僧は、技巧や書法にこだわらず、あるがまま自由に書きました。
(続きは、禅系宗派の文化・しきたり⑱にて)

この頃の禅僧でとくに知られているのは、一山一寧です。彼は後宇田法皇の要請で南禅寺に入りました。これにより、禅と宋・元の文化は貴族階級にも広まることとなりました。一山は詩文と書にすぐれ、その影響で禅寺では書がさかんに行われました。この時代の禅僧は、技巧や書法にこだわらず、あるがまま自由に書きました。
(続きは、禅系宗派の文化・しきたり⑱にて)

2014年05月22日
禅系宗派の文化・しきたり⑯
その後は、大陸で元が興ったことによって、書の歴史が大きく変わりました。一二七九年(弘安二年)に、南宋が元に滅ぼされると、混乱のなかで蘭渓道隆・無学祖元・一山一寧などの亡命僧が日本に逃れてきました。来日した宋僧たちはみな書に優れていたため、日本では宋風の書を尊重するようになりました。
(続きは、禅系宗派の文化・しきたり⑰にて)

(続きは、禅系宗派の文化・しきたり⑰にて)

2014年05月21日
禅系宗派の文化・しきたり⑮
日本で書がもっとも盛んだったのは、三筆や三蹟とよばれる人たちが活躍した平安時代です。この頃は中国風の優麗な書が書かれていましたが、鎌倉時代になると、武士の台頭で書も力強い作風になります。
(続きは、禅系宗派の文化・しきたり⑯にて)

(続きは、禅系宗派の文化・しきたり⑯にて)

2014年05月20日
禅系宗派の文化・しきたり⑭
室町時代に花開いた禅文化は日本のさまざまな文化に影響を与えましたが、書道もまた禅の影響を強く受けています。禅僧には、書道が修行の一つとされるほどでした。
禅僧の名筆は、臨終の句である遺偈や悟りの境地を記した偈頌、悟ったことを証明する印可状などに見られます。
(続きは、禅系宗派の文化・しきたり⑮にて)

禅僧の名筆は、臨終の句である遺偈や悟りの境地を記した偈頌、悟ったことを証明する印可状などに見られます。
(続きは、禅系宗派の文化・しきたり⑮にて)

2014年05月19日
禅系宗派の文化・しきたり⑬
武道では、心の状態が勝敗を左右するので、精神統一が重視されます。相手の動きに対しては反射神経が研ぎ澄まされていなければならないし、恐怖心や邪念にとらわれていては、瞬間的に反応することができません。集中力と、何ものにもとらわれない自由な精神が必要になるのです。
そのために意識を一点に集中させる坐禅の瞑想法が必要とされました。武道家たちは瞑想で集中力を養い、それぞれの道を極めようとしたのです。
(続きは、禅系宗派の文化・しきたり⑭にて)

そのために意識を一点に集中させる坐禅の瞑想法が必要とされました。武道家たちは瞑想で集中力を養い、それぞれの道を極めようとしたのです。
(続きは、禅系宗派の文化・しきたり⑭にて)
