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Posted by さがファンブログ事務局  at 

2014年05月18日

禅系宗派の文化・しきたり⑫

剣の道は人を殺傷しかねない道であり、禅の道は悟りを開くことによって自己を活かす道です。一見、正反対の道ですが、沢庵はその著書の中で「通達の人は刀を用いて人を殺さず、刀を用いて人を活かす」と説いています。

つまり剣の達人は刀で人を斬ることはなく、気迫にのまれた相手が身動きできなくなってしまうから、思うがままに操れると教えているのです。

続きは、禅系宗派の文化・しきたり⑬にて


  


Posted by きいちろう  at 21:38Comments(0)禅系宗派

2014年05月17日

禅系宗派の文化・しきたり⑪

近世になると、武道は禅の影響を受けはじめます。武道家たちは坐禅による瞑想修行を取り入れ、心を鍛錬し、気を強化しました。生死をかけた武道では、技だけではなく、心気の修練も重要なのです。

たとえば剣術を見てみると、柳生新陰流が臨済禅の影響を受けています。無敵の剣豪・宮本武蔵も臨済僧・沢庵宗彭に師事し、禅の修行をおこなったとされています。武蔵の著書「五輪書」のなかに、禅の教えが書かれていることもよく知られた事実です。明治維新のときに活躍した剣術家・山岡鉄舟も禅に剣術の本質を見出しています。

続きは、禅系宗派の文化・しきたり⑫にて


  


Posted by きいちろう  at 21:38Comments(0)禅系宗派

2014年05月16日

禅系宗派の文化・しきたり⑩

禅の精神は能や茶道のような芸術面に限らず、武道のような身体面にも深く関わっています。

武道とは弓道・剣道・柔道・合気道のような日本で発達した武術をいいます。武士が台頭した中世以来「武士の守るべき道」として形をかえながら発展してきたものです。

続きは、禅系宗派の文化・しきたり⑪にて


  


Posted by きいちろう  at 21:38Comments(0)禅系宗派

2014年05月15日

禅系宗派の文化・しきたり⑨

利休の弟子・山上宗二は茶会について「一期に一度の会」と記しています。これが「一期一会」という言葉の由来で、茶会に参加した人たちの出会いを一生に一度のかけがえのないものと考え、一回一回の茶会を大切にしようという意味が込められています。

このように茶は、禅と強く結びつき、日本人の精神性を高めるうえで大きな役割を果たしたのです。

続きは、禅系宗派の文化・しきたり⑩にて


  


Posted by きいちろう  at 21:38Comments(0)禅系宗派

2014年05月14日

禅系宗派の文化・しきたり⑧

茶の湯が開かれたのは、室町時代末期の村田珠光によります。珠光は一休宗純に師事して禅を学び、茶の作法にはじめて禅の思想を盛り込みました。侘び茶の世界です。

その後を受け継いだのが武野紹鷗で、彼もまた禅を取り入れています。

そして千利休が侘び茶をさらに発展させ、茶道を確立しました。利休は臨済宗の大徳寺で三〇年にわたって禅の修行を行ない、侘び茶を至高の芸術の域にまで高めました。

続きは、禅系宗派の文化・しきたり⑨にて


  


Posted by きいちろう  at 21:38Comments(0)禅系宗派

2014年05月13日

禅系宗派の文化・しきたり⑦

そして中国の禅院で行なわれていた行茶の儀が日本の禅寺で催されるようになると、茶の作法が茶寄合に発展していきます。

茶寄合とは、何人かが集まって茶を飲み、産地や品種を当てる娯楽です。そこでは茶の儀式作法も形づくられていきました。

続きは、禅系宗派の文化・しきたり⑧にて


  


Posted by きいちろう  at 21:38Comments(0)禅系宗派

2014年05月12日

禅系宗派の文化・しきたり⑥

昼夜そして四季を問わず、「お茶」は日本人の生活には欠かすことができません。そんな茶は、茶禅一味とか茶禅一業などといわれるように、禅と深く結びついています。

茶が中国で一般化したのは七、八世紀頃とされ、日本にも最澄が八〇五年(延暦二四年)に中国から茶の種を持ち帰り、比叡山に植えたという言い伝えが残っています。

しかし茶を本格的に広めたのは、鎌倉時代に臨済禅を広めた栄西です。留学先の宋から茶を持ち帰り、それが各地の禅寺に植えられて普及していきました。また栄西は「喫茶養生記」を著し、茶の薬効を広めています。当初日本では、茶は薬として受け入れられたのです。

続きは、禅系宗派の文化・しきたり⑦にて


  


Posted by きいちろう  at 21:38Comments(0)禅系宗派

2014年05月11日

禅系宗派の文化・しきたり⑤

世阿弥の能は娘婿の金春禅竹によってさらに高められましたが、禅竹も禅との間にも切っても切れない縁があります。「禅竹」という名前からもわかるように、彼は風狂で知られる禅僧・一休宗純について禅を本格的に修行した人物なのです。

このように日本の伝統文化として知られる能は、禅の思想を抜きにして発展することはなかったのです。

続きは、禅系宗派の文化・しきたり⑥にて


  


Posted by きいちろう  at 21:38Comments(0)禅系宗派

2014年05月10日

禅系宗派の文化・しきたり④

また「花鏡」では「能役者は常に日常生活のなかで禅を実践工夫せよ」と述べています。さらに「熱心な禅者はおごらず、名誉欲・権力欲に執着せず、無欲正直であれ」と、人としての生き方にまで踏み込み、注意を喚起しています。

続きは、禅系宗派の文化・しきたり⑤にて


  


Posted by きいちろう  at 21:38Comments(0)禅系宗派

2014年05月09日

禅系宗派の文化・しきたり③

観世親子が登場した十四世紀後半の室町時代は、武士を中心に禅がさかんでした。義満にしばしば禅寺へ連れていかれた世阿弥は、そこで禅を学びました。そのため、世阿弥の能には禅の精神が如実にあらわれています。

たとえば「秘すれば花なり」の句で知られる能楽論書「風姿花伝」のなかには、禅語がふんだんに使われています。

続きは、禅系宗派の文化・しきたり④にて


  


Posted by きいちろう  at 21:38Comments(0)禅系宗派

2014年05月08日

禅系宗派の文化・しきたり②

猿楽がさかんになるにつれてたくさんの座が形成されましたが、有力だったのは大和猿楽四座です。その四座の一つ結崎座から、能の大成者・観阿弥と世阿弥の父子があらわれました。京都の今熊野神社で父子が演じる勧進猿楽を見た将軍・足利義満は、彼らをたいへん気に入って生涯庇護しつづけました。

能の基本を完成させたとされるのが父の観阿弥で、息子の世阿弥は父をもしのぐ天才で、大衆芸能であった猿楽に禅の教えを取り入れました。それが夢幻能という高尚優美な能楽の世界です。

続きは、禅系宗派の文化・しきたり③にて


  


Posted by きいちろう  at 21:38Comments(0)禅系宗派

2014年05月07日

禅系宗派の文化・しきたり①

日本の伝統芸能である能の歴史は、猿楽にはじまります。猿楽は平安時代の芸能で、曲芸・軽業・奇術・物真似が主体でした。この猿楽がしだいに「猿楽の能」という一つの芸能に育っていきました。

続きは、禅系宗派の文化・しきたり②にて


  


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