2014年02月27日
時宗の宗祖⑤
信じようが信じまいが一心不乱に名号を称えれば往生できるという一遍の簡単な教えが大勢の心をとらえたのです。
そして無欲な一遍は、寺院や弟子を生涯もたず、粗末な身なりで死ぬまで旅を続けたのでした。
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時宗の宗祖①~④

そして無欲な一遍は、寺院や弟子を生涯もたず、粗末な身なりで死ぬまで旅を続けたのでした。
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2014年02月26日
時宗の宗祖④
これ以降、一遍は捨聖の身を通し、九州から東北まで全国で札を配ってまわりました。すると、阿弥陀如来に救われる喜びをそのまま体で表現する踊り念仏が民衆の間で自然に起こりはじめました。
(続きは、時宗の宗祖⑤にて)

(続きは、時宗の宗祖⑤にて)

2014年02月25日
時宗の宗祖③
しかしあるとき、「信じろと言われても信心が起こらない」と札の受け取りを拒否され、一遍は困惑します。悩む彼の前に熊野権現があらわれ、「ただ札を配りつづけなさい」とのお告げを授けました。
これによって一遍は、賦算に生涯をささげることを決意します。そして家族や財産、住居などはみな往生のさまたげになるとし、「南無阿弥陀仏」の名号以外は妻子や従者さえも捨ててしまいました。捨聖になったのです。
(続きは、時宗の宗祖④にて)

これによって一遍は、賦算に生涯をささげることを決意します。そして家族や財産、住居などはみな往生のさまたげになるとし、「南無阿弥陀仏」の名号以外は妻子や従者さえも捨ててしまいました。捨聖になったのです。
(続きは、時宗の宗祖④にて)

2014年02月24日
時宗の宗祖②
十三歳の一遍は、太宰府へ赴き浄土宗を学びますが、父が亡くなったことで伊予に帰り、いったん還俗、家督を継いで妻を娶ります。ところが伴侶をもっても落ち着かず、一族の所領争いを嫌って、伊予の窪寺で念仏の修業に入りました。
修行をはじめて三年後、一遍は念仏を称えて阿弥陀如来に頼る以外、救われる道はないと悟ったといいます。三六歳のときには、妻子を連れて遊行の旅に出て「南無阿弥陀仏」と書かれた札を配る賦算をはじめました。
(続きは、時宗の宗祖③にて)

修行をはじめて三年後、一遍は念仏を称えて阿弥陀如来に頼る以外、救われる道はないと悟ったといいます。三六歳のときには、妻子を連れて遊行の旅に出て「南無阿弥陀仏」と書かれた札を配る賦算をはじめました。
(続きは、時宗の宗祖③にて)

2014年02月23日
時宗の宗祖①
鎌倉時代末期に登場した一遍は、彼の死後に時宗と名付けられる宗派の宗祖で、浄土宗や浄土真宗よりもさらにわかりやすい浄土の教えを説きました。
一遍は一二三九年(延応元年)伊予国(愛媛県)の豪族の家に生まれています。承久の乱で祖父が流罪になると、父は出家してしまい、母とも死別することになりました。
(続きは、時宗の宗祖②にて)

一遍は一二三九年(延応元年)伊予国(愛媛県)の豪族の家に生まれています。承久の乱で祖父が流罪になると、父は出家してしまい、母とも死別することになりました。
(続きは、時宗の宗祖②にて)
