2014年02月22日
浄土真宗の宗祖⑫
親鸞は生涯弟子をとらず、「歎異抄」の悪人正機説にあるように「煩悩のさかんな悪人は往生のために他力を頼む。ゆえに阿弥陀如来は悪人こそ救おうとする」という教えを説きました。悪人救済を身をもって示した親鸞。彼を慕う者は、いまも絶えることがありません。
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2014年02月21日
浄土真宗の宗祖⑪
親鸞は八四歳になっていましたが、非情にも善鸞と親子の縁を切ります。信仰上の誤りに対しては、たとえ我が子であろうと赦さない厳しい態度を示したのです。
そんな一二六二年(弘長二年)十一月、末娘の覚信尼などに看取られながら、親鸞は九〇歳でこの世を去りました。
(続きは、浄土真宗の宗祖⑫にて)

そんな一二六二年(弘長二年)十一月、末娘の覚信尼などに看取られながら、親鸞は九〇歳でこの世を去りました。
(続きは、浄土真宗の宗祖⑫にて)

2014年02月20日
浄土真宗の宗祖⑩
ちょうどその頃、関東の門弟たちのなかに「悪人救済が阿弥陀如来の本願だから」と、あえて悪事をはたらく者があらわれました。当初親鸞は書簡を送って誤りを正そうとしていましたが、やがて長男の善鸞を関東に派遣します。
ところが、善鸞は父を裏切ってしまいます。誤った信仰を説いて、関東の教団の首領になろうと画策したのです。そして本来の教えを守っている門弟たちと対立し、ついには幕府への訴訟にまで発展してしまいました。
(続きは、浄土真宗の宗祖⑪にて)

ところが、善鸞は父を裏切ってしまいます。誤った信仰を説いて、関東の教団の首領になろうと画策したのです。そして本来の教えを守っている門弟たちと対立し、ついには幕府への訴訟にまで発展してしまいました。
(続きは、浄土真宗の宗祖⑪にて)

2014年02月19日
浄土真宗の宗祖⑨
またこの頃、教えをまとめた著書「教行信証」の草稿も書いています。このなかで親鸞は承元の法難にふれ、天皇や臣下が仏法にそむいて恨みにかられていると非難しています。
六〇歳を過ぎて京に帰った親鸞は、目立った活動をせず、著述に専念します。「浄土和讃」「高僧和讃」「正像末和讃」など、多くの書物を著しました。
(続きは、浄土真宗の宗祖⑩にて)

六〇歳を過ぎて京に帰った親鸞は、目立った活動をせず、著述に専念します。「浄土和讃」「高僧和讃」「正像末和讃」など、多くの書物を著しました。
(続きは、浄土真宗の宗祖⑩にて)

2014年02月18日
浄土真宗の宗祖⑧
また親鸞は京都で法然の門下にいた頃にも結婚し、範意という子をもうけていましたが、このときの妻が誰だったのかは定かではありません。
法難から五年後、法然とともに親鸞もようやく赦されました。法然は帰京しましたが、親鸞は京に戻らず関東に移ります。そして常陸国(茨城県)で約二〇年にわたり布教につとめました。親鸞にとってこの時代は、教えの体系を確立したもっとも重要な時期だったといわれます。親鸞の教えは武士よりも農民の間に広まり、信徒は急増しました。
(続きは、浄土真宗の宗祖⑨にて)

法難から五年後、法然とともに親鸞もようやく赦されました。法然は帰京しましたが、親鸞は京に戻らず関東に移ります。そして常陸国(茨城県)で約二〇年にわたり布教につとめました。親鸞にとってこの時代は、教えの体系を確立したもっとも重要な時期だったといわれます。親鸞の教えは武士よりも農民の間に広まり、信徒は急増しました。
(続きは、浄土真宗の宗祖⑨にて)

2014年02月17日
浄土真宗の宗祖⑦
越後での親鸞は、自らを非僧非俗とし、愚禿と名乗りました。僧でも俗人でもなく、頭髪を落としただけの愚か者と称したのです。
このとき親鸞は豪族の娘・恵心尼と結婚し、六人の子女をもうけています。当時、僧侶が公然と妻帯することはタブーでした。それにもかかわらず、堂々と妻を娶ったのには理由があります。戒律を守れない愚か者こそ阿弥陀仏に救われるという教えを、身をもって示したのです。
(続きは、浄土真宗の宗祖⑧にて)

このとき親鸞は豪族の娘・恵心尼と結婚し、六人の子女をもうけています。当時、僧侶が公然と妻帯することはタブーでした。それにもかかわらず、堂々と妻を娶ったのには理由があります。戒律を守れない愚か者こそ阿弥陀仏に救われるという教えを、身をもって示したのです。
(続きは、浄土真宗の宗祖⑧にて)

2014年02月16日
浄土真宗の宗祖⑥
しかし教えが広まるにつれて奈良の諸大寺や比叡山が反発し、専修念仏禁止の弾圧を行なうようになります。一二〇七年(承元元年)に法然は四国に流罪、親鸞も還俗(出家僧から俗人に戻ること)のうえ、越後国(新潟県)に流されました。これを承元の法難といいます。
(続きは、浄土真宗の宗祖⑦にて)

(続きは、浄土真宗の宗祖⑦にて)

2014年02月15日
浄土真宗の宗祖⑤
法然のもとには、貴族から民衆まで多くの人が参じ、教えを受けていました。念仏を称えれば善人も悪人も等しく往生できるという法然の教えは、煩悩に悩む親鸞にとっても絶対的な救いとなり、熱心に念仏の教えを学びました。
(続きは、浄土真宗の宗祖⑥にて)

(続きは、浄土真宗の宗祖⑥にて)

2014年02月14日
浄土真宗の宗祖④
すると九五日目の明け方、奇跡が起こります。六角堂の観世音菩薩が夢にあらわれ、教えを説いたのです。親鸞はその教えにしたがってただちに法然のもとを訪れ、専修念仏に帰依することになったのです。
(続きは、浄土真宗の宗祖⑤にて)

(続きは、浄土真宗の宗祖⑤にて)

2014年02月13日
浄土真宗の宗祖③
そこで二〇年にわたり天台の教えと修行に励みましたが、ついに悟りを得ることはできませんでした。しかも比叡山は世俗の権力と結んで堕落していたため、二九歳のときに下山を決意します。そして聖徳太子の創建とされる六角堂に一〇〇日間こもり、極楽往生を祈願しました。
(続きは、浄土真宗の宗祖④にて)

(続きは、浄土真宗の宗祖④にて)

2014年02月12日
浄土真宗の宗祖②
この頃の日本は貴族や武士が争いを繰り返し、天災・疫病で死者が続出するという生き地獄のようなありさまでした。そんな世にあって、父を四歳で、母を八歳で亡くした親鸞は九歳のときに比叡山へのぼり、慈円につきました。
(続きは、浄土真宗の宗祖③にて)

(続きは、浄土真宗の宗祖③にて)

2014年02月11日
浄土真宗の宗祖①
末法時代に浄土教の教えを広めた人物として法然と並び称される高僧が、浄土真宗の宗祖・親鸞です。
親鸞は一一七三年(承安三年)に、京都の宇治に近い日野に生まれました。藤原氏の流れをくむ、下級貴族の家でした。
(続きは、浄土真宗の宗祖②にて)

親鸞は一一七三年(承安三年)に、京都の宇治に近い日野に生まれました。藤原氏の流れをくむ、下級貴族の家でした。
(続きは、浄土真宗の宗祖②にて)
