2014年04月07日
天台宗の宗祖④
すると、この頃奈良から京都に都を移そうとしていた桓武天皇が最澄を訪ねてきます。京都の北東・鬼門の方角にあたる比叡山を聖地として、怨霊から新しい都を守ってほしいといわれました。この要請を機に、最澄は朝廷で重要な位置を占めるようになりました。
そして八〇四年(延暦二三年)最澄は天台の教えをきわめるため、公費の還学生として遣唐使に加わり唐にわたりました。無名の留学生だった空海とちがい、公費の還学生は多くのことを学んで、できるだけ早く国に戻るよう求められていました。
(続きは、天台宗の宗祖⑤にて)

そして八〇四年(延暦二三年)最澄は天台の教えをきわめるため、公費の還学生として遣唐使に加わり唐にわたりました。無名の留学生だった空海とちがい、公費の還学生は多くのことを学んで、できるだけ早く国に戻るよう求められていました。
(続きは、天台宗の宗祖⑤にて)
