2011年04月14日
旬をいただく(*^_^*)
気温も上昇してきて春真っ只中の様子ですね~♪
今晩のおかずも春の食材が目白押しです(^o^)丿

今晩のおかずは、鳥の竜田揚げ、たけのこ・わらび・てんぷらの煮物・わらびのマヨネーズ醤油和え(^J^)

今年初たけのこだったのですが、やっぱり旬のものはうまい!
次回はタケノコご飯を妻にリクエストしました♪

春の我が家の定番、わらびのマヨネーズ醤油和えも抜群にうまい、何回食べてもあきません!

しかし、それだけでは僕が物足りなく感じることを知っている結婚2年目のマイワイフ。揚げ物を入れることも忘れません(^o^)丿
毎日献立を考えるのは大変だと思います。妻の努力に感謝・感謝です(*^_^*)
2011年04月14日
リハビリ開始です♪
ギブスを取って湯船に入る許可も得たので今日は久々に半身浴&読書をしようと思います(^o^)丿
だいぶ足の腫れも取れてきましたが、まだまだギブスは必要とのこと(T_T)

紫色に変色していた部分はだいぶ色が薄くなってきました♪

さぁーて今日から半身浴ダイエット再開です(*^_^*)
恐らくこの2週間で体重増加しているでしょうから(*_*)
2011年04月14日
日蓮宗とは?
宗祖日蓮聖人(1222~1282)は、仏教の開祖釈尊が説かれた膨大な経典群の中から、殊更『法華経』を選び取られ、これを根本経典となさいました。従って、日蓮宗が標榜する信仰の対象は、その根本経典たる『法華経』に説かれた久遠実成の教主釈尊(仏)、その釈尊がお説きになった真意たる『法華経』(法)、そして『法華経』を弘通された宗祖日蓮聖人(僧)であり、この三宝を信仰の対象としています。日蓮聖人がしたためられた大曼荼羅(だいまんだら)ご本尊には、この三宝と法華経で最も重要な壽量品(じゅりょうほん)の説相が示されています。

宗祖:日蓮聖人
日蓮聖人は、膨大な仏教の経典の中で、『法華経』のみが完全真実の教えであり、釈尊の本意を淀みなく明かした経典と見なされました。そしてこの法華経は釈尊在世時の人々を救うばかりでなく、正しい仏法が失われ人々の心が病む末法(まっぽう)の時代、すなわち現代人の萎えた心までをも救い得る(否、寧ろ現代の我々の為の)教えであるとお考えになられました。
日蓮聖人によれば、法華経は「二乘作仏」(にじょうさぶつ)と「久遠実成」(くおんじつじょう)を説く所にその特質と意義があることになります。そしてこの両者を「二箇の大事」(にかのだいじ)と呼称され特に重要な法門とされました。
「二乘作仏」とは、法華経の前半に説かれる教えで、法華経以外の大乗経典では、自己中心的な声聞(しょうもん、仏の教えを直接聞き、四諦の道理により悟る人)と縁覚(えんがく、独りで十二因縁の道理を観察して悟る人)の二乘は成仏できないとされ、見捨てられていましたが、この法華経ではより高次元な「開会」(かいえ、我々が普通考える大小・善悪・長短等の相待的な二元論の立場ではなく、無自性空の絶待的一元の立場からの思考)の立場から、二乘をはじめ、悪人や女人(法華経以前の経典では女人は成仏しないとされていた。)も含む全ての人々の成仏を保証しています。そしてこの「二乘作仏」の法門により、一切の衆生を成仏の世界へ導く一仏乘の教えが示され、これにより我々末法の世に生きる凡夫ですら仏様と同じ心になることができると確証されたのです。
いまひとつの「久遠実成」とは、法華経後半に説かれる如来壽量品の教説で、インドに応現され八〇歳で入滅された釈尊は実は仮のお姿であり、真実の釈尊は久遠の昔に成道した永遠の存在であると同時に、全ての諸仏はこの本仏釈尊の垂迹示現にすぎないことが明かされています。そしてこの本仏は真摯な本当の信仰を持つものに対して、何時でも、たとえ如何なる所でも、常に救済の活動を続けておられるとしています。
日蓮聖人はこの法華経を学問的な理論としてではなく、久遠実成の本仏釈尊が常に大慈大悲による我々衆生の救済を継続されているという事実を表明したものと理解し、法華経を理屈ではなく、それこそ全身全霊で読まれ、持たれたのです。(これを法華経の「色読」しきどく、と称し日蓮聖人の法華経観の一大特色としています。)
2011年04月14日
おやつにいただきます(*^。^*)

砂糖がこれでもかというぐらい入っている甘いピーナッツ。一度手を出すとフィニッシュまで手がとまりません(゜o゜)
出会わなければよかったと後悔するぐらいよく食べています(T_T)
食べ過ぎたら確実に太るおやつでした(*_*)
2011年04月14日
南無阿弥陀仏の意味は?
「南无阿弥陀仏」は、「南無」と「阿弥陀仏」に分解できます。更に、「阿弥陀仏」は、「阿弥陀」と「仏」に分解できます。
「南無」「阿弥陀」「仏」は、すべて、インドの古典語であるサンスクリット語の音を中国語(漢字)に置き換えたものです。したがって、個々の漢字の意味を調べてみても、「南無阿弥陀仏」の意味にはたどり着けません。残念ながら、サンスクリット語の意味を追うしかありません。
以下、サンスクリット語の意味するところから、「南無」「阿弥陀」「仏」を説明させていただきます。
「南無」は、サンスクリット語で「屈する」という意味を持つ「ナマス」という言葉を音写したものです。南摸(なも)と音写する場合ります。中国語では、帰依、帰順、帰命などと訳されています。心から信じる、まかせる、従うという意味です。
「阿弥陀」は、「無量の命(限りない命)」を表す「アミターバ」という言葉と、「無辺の光(果てのない光)」を表す「アミターユス」という言葉の語幹です。無量、無辺、およそ、我々には量り知ることができないという意味があります。
「仏」は、ブッダ(仏陀)というサンスクリット語を語源とします。本来は、師匠、先生ほどの意味を表す一般語だったが、仏教では、悟りを開いた者という意味で使いました。そして、お釈迦様や、その直弟子が亡くなり、時代が下がると、やがて、かつて悟りを開いた人々の共通項を集めた抽象的な存在を意味するようになりました。
つまり、今風にいえば、「南無阿弥陀仏」とは、
1)我々には量り知ることのできない命と光を本体としながらも、
2)人よりは抽象的にして、悟りそのものよりは具体的な存在に対して、
3)心から従うこと
と、言えるでしょう。

2011年04月14日
浄土真宗とは?
鎌倉(かまくら)時代に、浄土宗から分かれた。親鸞(1173~1262)が師の法然(1133~1212)の教えをいっそうわかりやすく説いたもの。真宗。一向(いつこう)宗。門徒宗。
本願寺は元来親鸞の廟堂で、親鸞の子孫が管理した。三代覚如(1270~1351)の時、本願寺となり、第8代の蓮如(1415~1499)が中興の祖、今日の大教団の基礎を築いた。
東本願寺は、徳川家康が大きすぎる勢力を分散するため現職を離れていた教如(光寿)に施与したもの。現在十派に分かれる。
浄土宗と同じ浄土三部経を所依とし、阿弥陀如来の他力本願の信によって往生成仏を期する。南無阿弥陀仏の称名念仏は仏恩報謝の行であるとする。浄土真宗の浄土とは、仏や菩薩の住む安らかな国土を指す。浄土の数は210億もあるといわれ、数ある浄土のうち、日本の浄土真宗は、特に阿弥陀仏が住むという西方浄土(すなわち極楽浄土)に往生することを願うものである。浄土真宗とは往生浄土の真実の宗旨という意味で、阿弥陀仏の願力によって、いかなる者も救われる法であり、そのために、阿弥陀仏の名号を称える。

2011年04月14日
前田慶次郎は面白い!
商店街の片隅さんから隆慶一郎著「一夢庵風流記」を貸していただき読んでみると、漫画の世界以上に興奮し一気に読み進めちゃいました(*^。^*)

あらすじ
戦国末期、天下の傾奇者(かぶきもの)として知られる男がいた。派手な格好と異様な振る舞いで人を驚かすのを愉しむ男、名は前田慶次郎という。巨躯巨漢で、一度合戦になるや、朱色の長槍を振り回し、敵陣に一人斬り込んでいく剛毅ないくさ人であり、当代一流の風流人でもあった。そして何より、自由を愛するさすらい人でもあった。故あって、妻子を置き旅に出た男の奔放苛烈な生き方を描く時代長編。
今はパチンコにもなっているそうですが、それ以上にこの本は面白い!
ぜひ一読ください(*^_^*)
2011年04月14日
浄土宗とは?

浄土宗は、
法然上人は、今から約860年前(1133)に現在の岡山県(当時の
当時の旧仏教の中でこの新しい教えを打ち出されただけに、いろいろな苦難がつづきました。貴族だけの仏教を大衆のために、というこの教えは、日本中にひろまり、皇室・貴族をはじめとして、広く一般民衆にいたるまで、このみちびきによって救われたのでした。
法然上人は、どこにいても、なにをしていても南無阿弥陀仏をとなえよ、とすすめておられます。南無阿弥陀仏と口にとなえて仕事をしなさい、その仏の
こうした教えがひろまるにつれて、それが新しい宗教であったため、いろいろなことで迫害をうけました。そのときでも、法然上人はこの教えだけは絶対やめませんという固い決意をあらわしておられます。また、亡くなるときにも、わたしが死んでも墓を建てなくてもよろしい、南無阿弥陀仏をとなえるところには必ずわたしがいるのですといって、その強い信念を示されました。
亡くなってから間もなく800年になりますが、その遺言とは反対にお寺がたくさんできたということは、いかに法然上人の教えがわれわれ民衆と共にあって、その教えを慕わずにおられなかったか、という心のあらわれであります。
南無阿弥陀仏の仏の御名は、すぐ口に出してとなえられます。できるだけたくさん口に出してとなえるほど、私たちは仏の願いに近づくことになるのです。するとわたくしたちはすなおな心になり、今日の生活に必ず光がさし込んできて、活き活きとした、そして、平和なくらしができるようになります。それは明日の生活にもつづいて、日ぐらしの上に立派な花を咲かせてくれます。
法然上人の教えは、今生きることによろこびを感じることであります。
念仏をとなえながら、充実した日々をお過ごし下さい。