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Posted by さがファンブログ事務局  at 

2014年01月31日

浄土宗の宗祖⑩

証空、弁長、親鸞などの弟子が続々と入門してきたのもこの頃です。法然の説く教えは、末法時代の不安におののく大衆を魅了したのです。

こうして念仏の教えは京都だけでなく、東海・北陸にも伝わっていきましたが、いっぽうで南都や比叡山などの旧仏教教団から反発を受けることにもなりました。

続きは、浄土宗の宗祖⑪にて


  


Posted by きいちろう  at 21:38Comments(0)浄土宗

2014年01月30日

浄土宗の宗祖⑨

この問答で、法然の名と念仏の教えは一気に広まり、九条兼実をはじめ貴族の間にも帰依するものが増えました。

そして兼実の要請に応えて「選択本願念仏集」を著し、独自の念仏思想を示しました。また東大寺の重源の依頼で「浄土三部経」を講じたりもしました。

続きは、浄土宗の宗祖⑩にて


  


Posted by きいちろう  at 21:38Comments(0)浄土宗

2014年01月29日

浄土宗の宗祖⑧

そんな法然の名声を高めた出来事があります。京都大原の勝林院の顕真が、法然を招いておこなった念仏の教義問答です。大原問答ともよばれるこの会合には、高僧など三〇〇人あまりが集まりました。

大原問答での法然は、いまの世にふさわしい教えは念仏以外にないと談じ、人々を信伏させたといいます。

続きは、浄土宗の宗祖⑨にて


  


Posted by きいちろう  at 21:38Comments(0)浄土宗

2014年01月29日

仏具の修復(*^_^*)

お客様よりお尋ねいただくことが多い仏具修復(*^_^*)



写真のものは木魚のバイ、当店で修復・修理も承っております(^u^)

自分たちで修復できるものもありますので、お気軽にお問い合わせくださいヽ(^o^)丿

  


Posted by きいちろう  at 14:07Comments(0)仏壇屋さんの仕事風景

2014年01月28日

浄土宗の宗祖⑦

その後、比叡山をおりた法然は、いまの知恩院がある京都東山大谷に房を構え、念仏の教えを説き始めました。

当初は積極的な布教をおこなわず、法然自身は無名の僧侶にすぎませんでしたが「南無阿弥陀仏を称えれば誰でも救われる」という教えは、しだいに広まりをみせていきました。

続きは、浄土宗の宗祖⑧にて


  


Posted by きいちろう  at 21:38Comments(0)浄土宗

2014年01月27日

浄土宗の宗祖⑥

一一七五年(承安五年)法然が四十三歳のときのことで、浄土宗ではこの年を浄土宗開宗の年としています。

なお、この教えはただひたすら念仏を称えるので、専修念仏といいます。

続きは、浄土宗の宗祖⑦にて


  


Posted by きいちろう  at 21:38Comments(0)浄土宗

2014年01月26日

浄土宗の宗祖⑤

そしてあるとき、「往生要集」のなかに引用された善導著「観無量寿経疏」に出会います。このなかの一文にふれた法然は「南無阿弥陀仏を称えれば、誰でも極楽浄土に往生できる」という教えを感得し、阿弥陀如来の救いを確信したとされています。

続きは、浄土宗の宗祖⑥にて


  


Posted by きいちろう  at 21:38Comments(0)浄土宗

2014年01月26日

東西松浦駅伝大会ヽ(^o^)丿

10時50分頃、伊万里玉屋前通過ヽ(^o^)丿



沿道から多数の応援の声が(*^。^*)



皆さんの健闘を祈念しています(^u^)

  


Posted by きいちろう  at 11:08Comments(0)休憩中の私

2014年01月25日

浄土宗の宗祖④

比叡山で十二年間修行した法然は、二十四歳のとき比叡山をおり、奈良に遊学します。永観、珍海の浄土教を学びました。しかし仏教の真髄には到達せず、ふたたび黒谷に戻り、以後二十年間近くひたすら念仏修行に励みました。

続きは、浄土宗の宗祖⑤にて



  


Posted by きいちろう  at 21:38Comments(0)浄土宗

2014年01月25日

寝顔が似ている(*^。^*)

以前撮っていた寝顔写真を過去のものと比べてみると、段々自分に似てきている気がする親バカな僕^_^;

現在


2年前


子供も成長していますが、僕もワイドになってきてます^^;

僕みたいに大きくなり過ぎず、人並みの体格に成長するよう願ってます(*^_^*)

  


Posted by きいちろう  at 10:38Comments(2)子育て奮闘日記

2014年01月24日

浄土宗の宗祖③

この頃、先師・源光の「源」と、叡空の「空」をとって源空と改名しました。叡空からは「法然」の房号を与えられ、法然房源空と名乗ったといわれています。

続きは、浄土宗の宗祖④にて


  


Posted by きいちろう  at 21:38Comments(0)浄土宗

2014年01月23日

浄土宗の宗祖②

そして十八歳のとき、阿弥陀如来への信仰がさかんで念仏修行が行われていた西塔黒谷に移り、叡空の弟子となりました。戒律や念仏を学び、源信の著した「往生要集」についての講義も受けました。法然は、この黒谷で念仏の教えにふれ、大きな影響を受けました。法然の思想的基盤は、このときにつくられたのです。

続きは、浄土宗の宗祖③にて


  


Posted by きいちろう  at 21:38Comments(0)浄土宗

2014年01月23日

寒くても元気ヽ(^o^)丿

おはようございます(^O^)/

朝、車を見ると霜ビッシリで冷凍庫から出してきたような感じになっていた寒い伊万里地方です^^;



そんな寒い中でも毎日元気におこなっているいすいラジオ体操!(^^)!

レギュラーの皆様、寒い中誠にありがとうございました(^-^)


寒さに負けず、本日も1日明るく元気に張り切って頑張っていきましょうヽ(^o^)丿  


Posted by きいちろう  at 10:27Comments(0)いすい通り商店街

2014年01月22日

浄土宗の宗祖①

平安時代末期から鎌倉時代のはじめにかけて、日本は戦乱・天災・疫病などに次々と見舞われました。法然が浄土宗を開いたのは、人々がそんな不安と絶望の真っ只中にあった時代です。

法然は一一三三年(長承二年)美作国(岡山県)の官吏の家に生まれました。九歳のときに夜討ちで父を失うと菩提寺の住職であった叔父のもとに引き取られ、十三歳で比叡山にのぼりました。二年後には皇円のもとで出家し、受戒して天台の教えなどを学びました。

続きは、浄土宗の宗祖②にて


  


Posted by きいちろう  at 21:38Comments(0)浄土宗

2014年01月22日

初雪だるまヽ(^o^)丿

今日の伊万里地方は、朝うっすらと雪が積もっていました(*^_^*)

雪を見た娘は朝からテンションmax(^u^)

保育園に行く前に、雪をかき集めて初めての雪だるまをつくって喜んでいました(^-^)

もう少し積もってくれたら、ほかの遊び方を教えたいなと思います(*^^)v


  


Posted by きいちろう  at 12:37Comments(0)子育て奮闘日記

2014年01月21日

真言宗の宗祖⑪

空海は思想家、文化人としても偉大な業績を残しました。「十住心論」は仏教界を代表する名著といわれ、ほかにも「即身成仏義」「般若心経秘鍵」など多くの著作があります。また嵯峨天皇、橘逸勢とともに「三筆」と称されるように、書道にもすぐれた才能をみせました。さらに医療や漢方医学などにも精通し、非凡さを示しています。

そんな空海は八三五年(承和二年)、六十二歳のときに高野山で没しましたが、真言宗では亡くなったのではなく「入定」といい、いまも瞑想をつづけていると信じられています。

関連記事
真言宗の宗祖①~⑩


  


Posted by きいちろう  at 21:38Comments(0)真言宗

2014年01月20日

真言宗の宗祖⑩

空海は布教とともに全国を行脚し、社会事業に尽力しました。彼が掘ったといわれる井戸や温泉などは全国各地に残っています。なかでも讃岐の満濃池は、わずか三ヵ月で従来の数倍の強度に改修されたという溜池で「讃岐の水がめ」としていまも利用されています。

続きは、真言宗の宗祖⑪にて


  


Posted by きいちろう  at 21:38Comments(0)真言宗

2014年01月19日

真言宗の宗祖⑨

こうして真言宗を開いた空海は、朝廷のために鎮護国家の修法をおこない、数々の書物を著すなど、密教を広めることに力を注いでいきます。八一六年(弘仁七年)、高野山を開山すると、八二三年(弘仁一四年)には京都の東寺に密教の根本道場を開き、教王護国寺と号しました。そして東寺の隣に、庶民の子弟のための教育機関である綜芸種智院をつくりました。

続きは、真言宗の宗祖⑩にて


  


Posted by きいちろう  at 21:38Comments(0)真言宗

2014年01月18日

真言宗の宗祖⑧

八〇九年(大同四年)には、京都の高雄山寺(神護寺)に入り、密教の壇を開きました。壇とは密教の修法のときに、仏像や三味耶形などを安置し、供物などを供える曼荼羅のことをいいます。

多くの弟子が空海のもとに集まってきましたが、空海より先に帰国していた最澄もすすんで教えを求め、二人の間に交流がはじまりました。

続きは、真言宗の宗祖⑨にて


  


Posted by きいちろう  at 21:38Comments(0)真言宗

2014年01月17日

真言宗の宗祖⑦

この頃の密教は「大日経」にもとづく胎蔵界系と「金剛頂経」にもとづく金剛界系の二つの流れでできていました。空海は両方の秘法を持ち帰り、帰国後さらに修行を積みます。そして金剛界、胎蔵界を統一して真言密教という純密(正純密教)の教義を確立したのです。

続きは、真言宗の宗祖⑧にて


  


Posted by きいちろう  at 21:38Comments(0)真言宗