2014年02月09日
融通念仏宗の宗祖⑤
一一二七年(大治二年)には、摂津国(大阪府)の修楽寺を融通念仏の根本道場としています。これがいまの総本山・大念仏寺です。
そして一一三二年(天承二年)、六一歳で没するまで、良忍は融通念仏を全国に広め、多くの人々を合唱念仏に導きました。
(続きは、融通念仏宗の宗祖⑥にて)

そして一一三二年(天承二年)、六一歳で没するまで、良忍は融通念仏を全国に広め、多くの人々を合唱念仏に導きました。
(続きは、融通念仏宗の宗祖⑥にて)

2014年02月08日
融通念仏宗の宗祖④
その後、良忍が念仏会を開いたところ、鳥羽上皇をはじめ大勢の公卿が入会します。上皇から全国の人々に布教するよう激励され、感激した良忍は、集団で唱和する融通念仏を布教してまわりました。
(続きは、融通念仏宗の宗祖⑤にて)

(続きは、融通念仏宗の宗祖⑤にて)

2014年02月07日
融通念仏宗の宗祖③
このような壮絶な修業を続けていると、ある日阿弥陀如来があらわれ「一人の称える念仏と、多くの人の称える念仏とが互いに融通し合って往生できる」という融通念仏の教えを受けました。ここで良忍は、融通念仏宗を開創するにいたったのです。
(続きは、融通念仏宗の宗祖④にて)

(続きは、融通念仏宗の宗祖④にて)

2014年02月06日
融通念仏宗の宗祖②
ところが当時、比叡山の僧が貴族社会と癒着し堕落していたため山を降り、京都の大原に来迎院を建てて苦行に打ち込みました。
良忍の修行は苛酷をきわめました。睡魔に打ち勝つために手足の指を切って燃やし「法華経」と六万遍の念仏を毎日読経、唱和。さらに「妙法経」六部を書写しました。
(続きは、融通念仏宗の宗祖③にて)

良忍の修行は苛酷をきわめました。睡魔に打ち勝つために手足の指を切って燃やし「法華経」と六万遍の念仏を毎日読経、唱和。さらに「妙法経」六部を書写しました。
(続きは、融通念仏宗の宗祖③にて)

2014年02月05日
融通念仏宗の宗祖①
「一人の念仏が万人の念仏に通じる」とする融通念仏宗を開いたのが、聖応大師・良忍です。
良忍は一〇七二年(延久四年)尾張国(愛知県)に生まれました。十二歳で比叡山に入ると、良賀のもとで出家します。東塔の常行堂の堂僧として不断念仏と天台の教えを学び、仁和寺の永意のもとで密教も学びました。良忍はたちまちその極意を修得し、比叡山の重要な僧となります。
(続きは、融通念仏宗の宗祖②にて)

良忍は一〇七二年(延久四年)尾張国(愛知県)に生まれました。十二歳で比叡山に入ると、良賀のもとで出家します。東塔の常行堂の堂僧として不断念仏と天台の教えを学び、仁和寺の永意のもとで密教も学びました。良忍はたちまちその極意を修得し、比叡山の重要な僧となります。
(続きは、融通念仏宗の宗祖②にて)

2014年02月04日
携帯破損(T_T)
おはようございます(^^)/
今日は立春、しかしながら風が冷たい伊万里地方です(*^_^*)
先日、電話をポケットに入れようとしたところ、うっかり落としてしまいました|д゚)
拾い上げて画面を見ると、バリバリ割れてる(T_T)
早速携帯屋さんに持っていき、データ等を確認すると、画面が反応しないため最新データは移行できずとのこと( 一一)
少し前の分は残っていたので移行できましたが、バックデータはこまめに更新しとかなきゃいけませんね(-.-)
レンタルしている携帯は使い慣れていないから、不便なもんです('_')

気を取り直して、本日も1日明るく元気に頑張っていきたいと思います(^0_0^)
今日は立春、しかしながら風が冷たい伊万里地方です(*^_^*)
先日、電話をポケットに入れようとしたところ、うっかり落としてしまいました|д゚)
拾い上げて画面を見ると、バリバリ割れてる(T_T)
早速携帯屋さんに持っていき、データ等を確認すると、画面が反応しないため最新データは移行できずとのこと( 一一)
少し前の分は残っていたので移行できましたが、バックデータはこまめに更新しとかなきゃいけませんね(-.-)
レンタルしている携帯は使い慣れていないから、不便なもんです('_')

気を取り直して、本日も1日明るく元気に頑張っていきたいと思います(^0_0^)
2014年02月03日
浄土宗の宗祖⑬
法然は念仏を称えることで阿弥陀如来の本願によって救われるという、他力易行の道を教え広めることに生涯を賭けました。
そして門下からは多くの名僧が生まれ、いくつもの流派が形成されていきました。法然は歴史の大きなうねりのなかにあらわれた宗教改革者だったのです。
関連記事
浄土宗の宗祖①~⑫

そして門下からは多くの名僧が生まれ、いくつもの流派が形成されていきました。法然は歴史の大きなうねりのなかにあらわれた宗教改革者だったのです。
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2014年02月02日
浄土宗の宗祖⑫
さらに一二〇七年(承元元年)法然の二人の弟子が後鳥羽院の女房と密通したという嫌疑で死罪とされ、翌年には法然も四国への流罪となりました。(承元の法難)このとき法然は七十五歳、老骨の身で四国の地へ流され、四年後にようやく帰京を許されましたが、翌年には大谷の禅房で八十歳の生涯を閉じます。
(続きは、浄土宗の宗祖⑬にて)

(続きは、浄土宗の宗祖⑬にて)
