2013年09月10日
曹洞宗とは?②
道元は著書「正法眼蔵」のなかで、「身体で坐り、心で坐り、身も心もいっさいの束縛を離れた自由な状態で坐るべきだ」と坐禅について述べており、公案を重視していません。そして「経典も、念仏も、仏像も、焼香もいらない。ひたすら坐禅することによってのみ、釈尊の正伝である仏法を学びとれる」ともいい、すべての束縛から解放された悟りの境地を身心脱落と表現しています。
(続きは、曹洞宗とは?③にて)
(続きは、曹洞宗とは?③にて)

2013年09月09日
曹洞宗とは?①
道元が開いた曹洞宗では、只管打坐こそが仏の行だと主張しています。ただひたすら(只管)坐禅に打ち込む(打坐)ことが、悟りにほかならないのです。
前述(臨済宗とは?①~⑥)したように、臨済宗の禅は公案をもって悟りを得ようとする看話禅です。それに対して曹洞宗の禅は、言葉を用いず黙って坐る黙照禅です。
(続きは、曹洞宗とは?②にて)
前述(臨済宗とは?①~⑥)したように、臨済宗の禅は公案をもって悟りを得ようとする看話禅です。それに対して曹洞宗の禅は、言葉を用いず黙って坐る黙照禅です。
(続きは、曹洞宗とは?②にて)

2013年09月08日
臨済宗とは?⑥
公案は頭で理解するのではなく、身体全体で体得していくものです。したがって合理的な答えが求められるわけではなく、その人の直接体験から出た答えかどうかが重要になってきます。直接体験が表現されていなければ師は合格の判定を下さず、弟子はふたたび公案に取り組み直さなければなりません。
臨済宗では、こうした修行が毎日繰り広げられているのです。
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臨済宗とは?①~⑤
臨済宗では、こうした修行が毎日繰り広げられているのです。
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2013年09月07日
臨済宗とは?⑤
師は数ある公案のなかから一つの問題を弟子に与えます。弟子は坐禅しながら公案に取り組み、答えがわかったら自分なりの見解を師の部屋で述べます。これを入室参禅といい、師と弟子の二人だけで激しいやりとりが行われます。
(続きは、臨済宗とは?⑥にて)
(続きは、臨済宗とは?⑥にて)

2013年09月06日
臨済宗とは?④
公案は古則公案と現成公案の二つにわけられるが、臨済宗では、祖師や高僧の言葉や行動を語録に残した古則公案を重視しています。
一七00則あるといわれる公案は、どれも非常に難解です。常識にとらわれていては回答を得られません。
(続きは、臨済宗とは?⑤にて)

一七00則あるといわれる公案は、どれも非常に難解です。常識にとらわれていては回答を得られません。
(続きは、臨済宗とは?⑤にて)
